【学校編2-1】

保健室の常連客



 保健室と書いてリゾート地と読む。そんな人間が身近にいるから、健康であるはずの拓夢にとって、保健室は縁のない場所ではなくなってしまった。
 本来なら、リゾート地ではないことを教育しなければならない先生も「具合が悪い」という生徒の嘘か真か分からない発言を全く無視するわけにもいかないので、「なんとかしろ、霧夕」となってしまうわけだ。

「なんでいつも俺が――」

 ぶつぶつ文句を呪文のように唱えるが、代理の誰かが召喚されるわけでもない。拓夢はいつものように、校舎の一階、保健室を目指して歩く。保健室が近づくにつれて胃がキリキリするのだが、そういった症状を相談するところが、これから向かう場所だ。
 トビラを開けると、まず目に飛び込んでくるのは目隠し代わりの棚。
 棚には色々な骸骨が飾ってある。可愛らしい人形から、生々しいほどリアルな頭蓋骨まで。保健室には似合わない代物だが、これが養護教員の趣味だ。勘の良い人なら、即踵を返すことだろう。保健室に行くくらいなら、帰るか近くの病院に駆け込んだ方がいい。少なくとも、拓夢はお世話になる立場でここに来るくらいならそうする。

 息を潜めて棚の向こう側をのぞく。気配を殺したのは、心の準備が必要だったからだ。
 西側には、カーテンで仕切られた四つのベッド。そこだけを切り取って見ると、普通の保健室に見えるのだが……部屋の真ん中にある事務机には、ビーカーやら試験管やらが乱雑に置かれていて、「いつも通り普通じゃない」と痛感する。保健室の東側には、薬品や実験器具が並んでいる鍵付きの棚があって、勘のいい生徒なら、すぐに元気になって帰るはずだ。

 ここは保健室、というより実験室。

 事務机では、アルコールランプの上にあみを敷いて、ビーカーの中で揺れている液体を煮ている男がいる。くすんだ金髪に、灰色のメッシュを入れた、派手な男。白衣を着ていることから想像はつくだろうが、あれが養護教員だ。片方の髪を耳にかけているから、骸骨のピアスがよく見える。パンプな養護教員を前にして「怪我をしたと思ったけど気のせいでした」と引きつった笑顔で帰る生徒も少なくない。

 そんな先生の近くに、目当ての人はいた。
 今日はベッドではなく、椅子に座って物思いに耽っているようだ。椅子に座って、というか机に頬をひっつけて、窓を眺めている。他の利用者の迷惑になるくらい、倦怠オーラが充満している。目の前の養護教員が行なっている怪しい実験には、無視を決め込んでいるらしい。

「くくく、迎えが来たようだよ、朽木クン」
「はぁ、面倒だ」

 二人とも拓夢に視線は寄こさないが、正体はバレているようだ。
 拓夢は諦めてカオスな空間に一歩足を踏み出す。

「堂々とサボるな、陽介。とっとと行くぞ」
「サボってねぇ。心の病だ」
「だったら病院に行け。俺の手をわずらわせるな」
「煩わせてんのは先生」
「原因はお前だ」

 陽介の側に立って見下ろすが、反応はない。

「心の病なら仕方ないよねぇ、拓夢クン。くくく、今日もなかなか見目麗しいよ」
「黙ってろ死神」

 拓夢は、かの人物を「死神」と呼ぶ。骸骨好き、というところから、そのあだ名をつけたようだ。

「いいのかなぁ、そんな態度を先生にとっても」
「黙ってください、先生。ほら、陽介。早く立て」

 一刻も早くこの空間から逃げ出したい拓夢は、陽介の肩を激しく揺する。いつもならこれで渋々立ち上がるのだが、今日の陽介は手強い。肩を揺すってもなかなか動かない。

「ここにいたらとって食われるぞ」
「それでもいい」
「よくない」

 陽介が駄々をこね始めたら、長期戦になる合図だ。ぐつぐつ不吉な音が響いているこの空間に、あまり長居はしたくない。いっそのこと陽介を放って帰ってしまいたいのだが、担任の先生がそれを許さない。陽介が戻ってくるまで、休み時間になると何度も保健室に通わされるのは目に見えている。
 面倒ごとは、一度きりがいい。

「大体、ここにいたら具合が悪くなる」
「慣れた」

 すっかり倦怠モードに入っている陽介をどう起こそうか。
 拓夢はビーカーの中で煮立っている、琥珀色の液体に目を向ける。いくら陽介でも、命の危険を感じると動き出すのは、友人がすでに立証済みだ。
 死神――ヴィンセント・グレイブと目が合う。灰色の瞳が三日月型に細められる。

「気になるのかなぁ、拓夢クン。毒だと疑っているなら、口移しで飲ませてあげようか?」
「誰も飲むとは言っていないが……そうだな。どうせならこいつに飲ませてやってくれ」
「……それ、なんすか、ヴィンス先生」

 陽介も興味がないわけではないらしい。机から頬を離し、半目でビーカーを見つめている。

「ああ、これはねぇ――」

 グレイブの言葉を遮るかのように、保健室のトビラが開いた。三人の注意は一斉にそっちを向いた。
 踵を返さないほどの用事であれば、重傷の生徒が来たことになる。
 そして実際、棚の向こうから現れたのは、

「さ、酸素、を……」

 息絶え絶えになりかけている、女子生徒だった。

◆ ◆ ◆

「水崎、しっかりしろ!」

 彼女が今求めているものは酸素だ。
 棚には実験器具に混じって、酸素缶が置いてある。スポーツの後に使える、一般のものだ。
 拓夢はそれを、死にかけた少女――水崎波音に手渡した。
 酸素をしばらく補給することで、波音の息は落ち着いた。死ななくてよかったと彼女の背中をさすりながら思うのだが、同時に

「どうして働かないんだ、死神」

 死にかけた生徒がいるというのに、ヴィンセントは何もしようとしない。怠慢ゆえの職務放棄は見過ごせない。

「僕に働けって、つまり水崎さんを殺せってこと? 拓夢クンひどーい」
「なぜそうなる?」
「だって、拓夢クンは僕を死神って呼ぶじゃないか」
「見た目のあだ名だ」
「僕的にはヴィンス希望」
「ふざけている場合でもないだろ、グレイブ先生」
「意地でも名前を呼ばないって?」

 何がツボに入ったのか、盛大に笑い出したヴィンセントを無視して、拓夢はひとまず波音を椅子に座らせる。息は落ち着いたようだが、顔色は悪いままだ。

「大丈夫か?」

 拓夢の問いかけに、波音は弱々しく頷いた。
 ウェーブのかかったセミロングの髪に、深い紺色の瞳。気品に満ちた雰囲気をまとうこの少女は、拓夢の知り合いだ。

「お前、運動でもしたのか?」

 そして陽介の知り合いでもある。

「運動といえば、運動かもしれないんだけど……一人で階段をのぼったの。今日は調子がいいから、大丈夫だと思ったのだけれど」
「そんな自殺行為を――っ」
「死ぬぞ、お前」

 知り合いだからこそ知っている。彼らが本気で心配するほど、波音の体は弱い。それはもう、専属の看護師が必要だと誰もが口をそろえていうくらいだ。階段をのぼるなんて行為は、波音の生命の危機に関わる非常に激しい運動だ。

「落ち着いたら、少し飲み物でも飲むといいよ」

 ヴィンセントの提案に、三人が一斉に振り向く。
 机の上に用意されている飲み物といえば、ぐつぐつ音をたてて煮こまれていた琥珀色の液体しかない。
 ヴィンセントは人数分のビーカーに、琥珀色の液体を注いでいる。そもそもビーカーに注がれる時点で、人間の飲み物ではない。

「お前、仮にも養護教諭がそれを飲ませる気か」
「俺ぁいらねぇぞ」
「私もいらないかな」

 三人の声が重なるのも無理はない。

「ただのハチミツレモンだよ」

 正体がハチミツレモンだったとしても、ビーカーに入った液体を誰が好き好んで飲みたいと思うものか。
 三人が拒絶の意を示したところで、昼休み終了間際のチャイムが鳴った。
 逃げるには、絶好のタイミング。

「そろそろお暇しよう、陽介」
「調理実習、面倒くせぇよ」
「何もしない人間が面倒くさいなどと戯言を吐くな。行くぞ」

 文句をたれつつ、それでも立ち上がる陽介に満足する。

「私も、教室に戻らなくちゃ」
「水崎さんはダーメ。拓夢クンがちゃんとお仕事しろって言うからさ」
「どういう理由だ、それは」
「熱を計ろうか。その様子じゃ、たぶんあるから」

 ヴィンセントの指摘を受けて、改めて波音をみると、顔色が悪いのに加えて頬が赤く色づいている。額から汗も流れており、そもそも落ち着いたと思った息がまだ少し上がっている。

「君たちは早く行かないと、遅刻しちゃうぞ」
「……水崎、もし何か変なことをされそうになったら、助けを呼べ。いいな」

 弱った波音を一人保健室に置いていくのは心もとないが、ヴィンセントは腐っても養護教諭だ。完全に職務放棄するわけにもいかないだろう。
 波音がひらひらと手を振っている。自分は辛いだろうに、それを隠すかのように、柔らかい微笑みをたたえている。

「調理実習、がんばってね」
「ああ、死なないように善処する」
「怪我しねぇようにするの、かったりーんだよな」

 二人の面持ちは、これから調理実習をしてきます、というよりは、これから戦場に赴いてきます、といった暗いものになっている。
 だからといって、健全な二人が授業を休むわけにはいかない。
 波音の温かい眼差しを受けながら、二人は保健室を出ていった。
 ――それが、数十分前の出来事。

◆ ◆ ◆

 一日に二度も保健室に通わなければならなくなるとは。拓夢は自分の失態を呪いつつ、保健室に入っていく。あの奇妙な養護教員に笑われることを覚悟で足を踏み入れたのだが、保健室に白衣の男の姿はない。さっきまであったはずのビーカーも、アルコールランプも綺麗に片付けられている。
 そのかわり、保健室にいたのは、死にかけていたはずの波音だった。

「霧夕くん、どうしたの?」

 さっきより顔色がよくなっている波音が、怪訝そうに尋ねてくる。

「まあ、ちょっとな……。先生はいないのか?」
「うん、来客があったみたいで、少し席を外すって」
「そうか。それはタイミングが良かった」
「良くないよね」

 間髪入れず波音が口を挟んできた、そのことに驚く。
 波音の視線は、拓夢の指に注がれている。左の人差し指をハンカチで包み、右手で押さえていたので見えないと思っていたが、よく見ると赤いシミが滲んでいる。
 血液を見ると目眩がするといった人は少なからずいるので用心していたのだが、波音にその心配はないようだ。存外平気な顔をしている。

「あー、大した傷じゃないんだ」
「見せて」
「治療くらい自分でできる」
「器用な人はね」

 胸に突き刺さるこの一言の方が致命傷だ。

「椅子に座って? こう見えても、怪我の治療には慣れているから大丈夫」

 躊躇いはあったが、波音の有無を言わせぬ態度に負けて、椅子に腰を掛ける。その間に波音は保健室に常備してある救急セットを持ってきた。

「ハンカチ、のけてくれる?」

 言われた通り、ハンカチを剥がす。
 こういうときに、なぜラップで指を巻いてこなかったのかと過去の自分を呪うが、巻かなかったものは仕方ない。傷口にハンカチが張り付いていて、剥がすときの方が切ったときよりも痛かった。
 声には出さなかったが、顔には出ていたようだ。

「痛いね、それは」
「……なんで嬉しそうなんだ?」
「そんなことはないわ。一度、水道水で洗おうか。……自分でやる?」
「ああ、それくらいは自分でやる」
「しっかり洗わないとダメよ。ああ、でも、傷口の中までは洗わなくても大丈夫だからね」
「だからなんで嬉しそうなんだ」

 今の波音は、死人のような顔でここに来たのが嘘のように、生き生きとしている。
 そのことが少し引っかかるが、今は傷の治療が先だ。洗面台の蛇口をひねり、血を洗い流す。傷口に染みる水が苦痛をもたらすが、歯を食いしばって耐えた。ヴィンセントがいなくて本当によかった。あの養護教員は、苦痛にゆがむ人の顔が大好物だ。
 拓夢が椅子に戻ると、波音は用意していたラップで傷口を包んだ。
 怪我の治療には慣れている、という言葉は伊達ではない。養護教員に引けをとらないくらい手際がいい。ラップで傷口をおおうと、その箇所を固定するためにテープを貼っていく。

「それにしても、ずいぶんざっくり切ったのね。包丁?」
「ああ、油断した。爆発に気を取られてしまったんだ」
「あらまあ、それは大変」
「電子レンジが吹き飛んだからな。後片付けは大変そうだった」
「でも、怪我をしたのは霧夕くん一人?」
「そうみたいだ」

 カットバンで固定されたラップは、包帯によって姿を消した。

「ふふ、それは残念」
「残念?」
「私、人の怪我を治療するのが大好きなの。だから、残念」

 あたかも人の怪我を望んでいるかのような発言に、目眩がする。だが処置の仕方は申し分ない。

「……そうか」

 人の趣味はそれぞれだ。怪我の治療が趣味、おおいに結構。おかげで、拓夢の指は綺麗に処置された。

「ラップは定期的に替えてね」
「ああ、ありがとな」

 波音が片づけを始め、手伝おうとすると手で制された。
 早く実習に戻りなさい、と目が訴えている。

「すまんな」

 好意は素直に受け取っておくに限る。作りかけのガトーショコラが酷い目に遭っていないか気が気でならないからだ。
 保健室を出ようと椅子から立ち上がったところで、場違いな歓声が地に轟いた。心霊現象ではない。保健室から見えるグラウンドで、サッカーをしていた生徒たちが発した奇声だ。拓夢と波音が同時に窓を見る。
 おそらく誰かがシュートを決めたのだろう。赤いゼッケンを着た女子たちがグラウンドで飛び跳ねている。

「そういえば、体調はもういいのか?」

 元気な少女を見ると、か弱い少女の体調が心配になってくる。

「ええ、ずいぶん良くなったの。……サッカー、楽しそうね」
「お前にとっては自殺行為だろう」
「だからいつも保健室で観戦組。退屈ではあるかな」

 波音は好きで保健室にいるわけではない。スポーツをすると間違いなく病院に担ぎ込まれるのでああいったことに参加することができないだけだ。陽介なら飛んで喜ぶだろうが、波音は違う。
 後ろから見た波音の背中が、悲しそうに見えるのは気のせいか。いや、たぶん気のせいではない。グラウンドを走る知人の姿に、サッカーをしているのは波音のクラスメイトであることを知る。

「まあ、おかげで俺は助かった」
「不器用な霧夕くんのお役に立てて嬉しいよ」
「一言余計だ」
「でも器用だったら私は必要ないでしょう?」
「それはどうだか」

 仮に拓夢が数秒で針に糸が通せるほど器用な手先の持ち主だったとしても、綺麗に包帯を巻く自信はない。ヴィンセントの手を煩わせるという考えは最初からもってなかったので、波音がいたのはラッキーだった。
 踵を返して、ふと立ち止まる。

「あとで、ガトーショコラを持ってくる」
「ガトーショコラ?」
「今作っているんだ。どうせ余るから、無事作れたら持ってくる」
「まあ、それは嬉しいわ! 霧夕くんのお菓子は美味しいっていーちゃんが言っていたから、一度食べてみたかったの」

 いつもは形が悪いだの歪だのさんざん貶しているくせに。手を切ったことで失いかけていたやる気を再び上昇させる、効果抜群の大賛辞ではないか。
 これは、手を抜くわけにはいかない。

「ハードルが高いな」
「形は気にしないから、美味しいものをよろしくね」

 一言余計だが、事実なので否定はしない。

「死なない程度にがんばってくる」

 そんな志を胸に、拓夢は再び戦場へと赴いた。