【学校編2-2】

午後三時のお茶会で、少年少女は病人を語る



 住宅街から電車で三十分離れた場所に、大型のショッピングモールがある。横に広い建物に、余すところなく専門店が入っている休日の拠り所だ。
 休日の避難所ともあって、特に日曜日のショッピングモールは人で賑わう。人混みの波に呑まれると若干酔ってしまう拓夢は、自らすすんで行こうとは思わない。こういった場所に好き好んで来ている人間の心理を、一言で「狂っている」と吐き捨てるくらいだ。しかし欲しいものが複数ある場合は、こういった場所に行った方が効率はいい。
 気は進まないが、どうしても行かなくてはならなくなってしまった拓夢の機嫌は水準よりもやや低め。一方で、賑やかな場所を好む彩葉の機嫌は水準よりもやや高め。子どもたちに負けないくらい笑顔が華やいでいる。

「そもそも、唐突すぎるんだ、師匠は」
「それもう五回聞いた」

 人で溢れかえったショッピングモールの一角に、拓夢と彩葉はいた。
 拓夢は右手に、彩葉は左手にそれぞれ荷物を持っている。いい買い物日和だった、というにはまだ物足りない。手提げのビニール袋はさほど大きいものではない。紙コップ、紙皿、割り箸、テーブルクロス……、荷物としては軽いものばかりが袋の中に入っている。

「何度言っても言い足りない。パーティーをするときは、せめて前日に告知するべきだろう。あいつは準備をしたことがないから当日に平然と言ってのけるんだ」
「忘れてただけだと思うけど」
「忘れる? それは社会人がもっとも使ってはならない言い訳だ」

 拓夢が歩きながらこぼしていく愚痴を、彩葉は飽きずに拾っている。それほど彩葉の機嫌はいい。拓夢にとっては考えられない。

「そもそも、拓夢が凝り過ぎなんだって」
「どこが?」
「パーティーって言っても、内輪の集まりなんでしょ? だったら、普通のおつまみでいいと思うんだけど」
「甘い。師匠たちの胃が、少量のおつまみで足りると思うか?」
「大量に作ればいいよ」
「それでは味気ないだろう。パーティーだぞ」
「……ようは、凝った料理が作りたいだけなんだよね」

 あれほど饒舌に愚痴をこぼしていた人間が、言葉に詰まっている。図星だったのだろう。
 事の発端は数時間前に遡る。師匠、こと拓夢の保護者兼兄である赤城暁が「社内パーティーをうちでやることになった」と呟いたのは、今朝のこと。
 「仕事帰りにみんな来るから、それまでに用意を頼む」唐突すぎるパーティー宣言に、拓夢は軽い脳内パニックを起こしていたようだが、時間が経つにつれて落ち着いてきている。そのことに、彩葉は内心安堵していた。パニックを起こした拓夢をなだめるのは、酒に酔っ払った中年男性を相手にするよりも根気がいる。同じ内容の愚痴を、言葉を変えつつ延々と語るものだから、聞いている方は疲れてしまうのだ。

「それより休憩! あそこのカフェ、ケーキが美味しいんだよ」

 パニックになった拓夢に呼び出され、強引に手伝わされているこの状況。楽しみの一つぐらいないと割に合わない。

「行ったことあるのか?」
「波音とね。紅茶も結構種類あるんだ」
「へぇ」
「拓夢のおごりで」
「言うと思った」

 パーティー費用と称して多めにお小遣いをもらっているので、彩葉という貴重な人材をこき使うための投資だと思えば、かなり安いものだ。
 拓夢はため息一つで彩葉の提案を呑み込み、二人は午後三時を迎えたカフェの中に入っていった。


癒えない傷

 そこは、ショッピングモールの中にあるとは思えないほど落ち着いたカフェだった。客の年齢層は平均的に高く、日曜日にしては幼子の姿が少ない。
 紅茶とケーキが運ばれてくるまでの間、彩葉は正面に座った拓夢の左手を見ていた。もちろん、拓夢の手を見ても面白いわけではない。ただ、気になることがある。

「それ、一昨日の怪我だよね?」
「ああ」
「包丁で切ったんだっけ?」
「水崎に聞いたのか?」
「もちろん」

 拓夢の脳裏を過ぎったのは、息絶えそうな顔で保健室にやって来たひ弱な少女。
 波音と彩葉はクラスメイトであり、友人でもある。拓夢と陽介が彼女のことを知っていたのは、彩葉という共通の知人を通して知り合っていたからだ。

「ちゃんと包帯は替えているみたいだね」
「当たり前だ」
「でもなぁ……言うべきか、言わないべきか、迷ったんだけど」
「迷ったなら言うな」

 毒を含んでいそうな彩葉の言葉の続きに察しがついたのだろう。拓夢が刺すような視線を寄こすが、合金の心は見事にそれを跳ね返す。

「拓夢が怪我したのって、左手の人差し指だけじゃなかったっけ?」

 彩葉の視線の先にある、包帯でぐるぐる巻かれたミノムシのような手。おかしいのは、指一本ではなく、四本が包帯にくるまれているところだ。まるでボクサーのテーピングのようだが、人差し指だけの怪我でここまでの重装備になるはずがない。
 拓夢が膝の上に左手を隠すがもう遅い。

「人差し指以外も切っちゃったの?」
「……熱湯で火傷をしたんだ」
「わー、どんくさい」
「そんな日もある」
「包丁で指切った上に火傷って、ドジっ子の称号ゲットだね」
「やめろ、絶対に広めるなよ」
「事実だもん」
「……お前、わかってるんだろう?」
「レッテル増やすくらいなら、最初から素直に言えばいいのに」

 なぜ怪我をより重傷ちっくに演出してしまったのか。
 嘘を通せなくなった当の本人はそっぽを向いてしまっている。まともに目を合わせない。いや、合わせられない。
 そんな拓夢に、彩葉が可愛らしい笑顔でとどめを刺す。

「不器用ってかわいそう」

 言われなくても知っている。


怪我と包帯

 紅茶とケーキが運ばれてくるまでの間、彩葉は退屈しのぎに拓夢の包帯を巻き直すことにしたらしい。

「はい、手を出して」

 しかしここはカフェの一角。人の目があることもあり、素直に手を出すのは抵抗があった。公衆の面前で情けない姿をさらしたくはない、思春期のプライドだ。

「断る」
「どうして?」
「それは俺のセリフだ。このままでもいいだろう」

 眉間にシワを寄せ、嫌だと露骨にアピールする。

「動かしづらくない?」
「別に、慣れた」
「ふーん。まあ、いいんだけど」
「いいのか」
「拓夢がそこまで嫌がるなら、大人しくひくよ」

 彩葉があっさりとひいたことに、つい拍子抜けしてしまう。引き下がってしまえば、拓夢はこれ以上何もいうことができない。望んでいた結果とはいえ、なんとも張り合いがない。
 向かい側に座る彩葉は、窓に顔を向けてしまった。
 それから数秒後。

「波音はよくて、彩葉はだめ?」
「――は?」

 この話はおしまいだと、油断していた。
 拓夢はもう一度頭の中で彩葉の言葉を反芻する。話が突拍子すぎて、理解が追いつかなかった。

「ずるいよね。差別だね」

 が、冷静になればすぐに分かる。
 どうやら、包帯のことを言っているらしい。

「何が差別だ。区別はしているが、差別した覚えはない」
「じゃあどうして波音には包帯やらせてあげて、彩葉はダメなの?」
「それは状況と信用の問題だな」
「やっぱり差別じゃん」
「違う、区別だ」

 どっちも同じだよ、と言いながら、彩葉は頬を膨らませている。が、怒っているわけではなく、むしろニヤニヤとおもしろがっている。

「ま、いいけどね。その手じゃ料理は難しそうだなと思っただけだし」
「だからこそお前に手伝わせようと……」
「そもそもどうして嫌なの? 嫌がらせしているつもりはないんだけど」

 彩葉には思春期のプライドが理解できないらしい。

「だから別に、巻き直してもらう必要がないだけであって――逆に、どうしてそんなにやりたがるんだ」
「暇つぶし」
「別のものでやれ」
「今やってる」
「何を?」
「拓夢いじり」

 どうやら、いいように遊ばれていたようだ。


心配は青春の弱み

 プライドをかけた抵抗はことごとく打ち破られ、結局包帯を綺麗に巻き直されて、気分が沈んでいたところに、ケーキが運ばれてきた。

「おまたせしました、チョコレートとラズベリーのショートケーキです」

 細長いスポンジに、チョコレートのコーティングが施された、見栄えのいいケーキ。金色のチョコレートでできた薔薇の飾りと、ラズベリーがのっている。

「あ、それ私です」

 どちらに置くべきか、店員の戸惑いに気づいたのか、彩葉が声を出す。
 チョコレートケーキは無事彩葉の前に置かれた。

「こちらは、フレジエになります」

 そしてもう一つのケーキは、拓夢の前に差し出された。
 プレートに乗っていたのは、真っ白でふんわりとした生クリームに包まれた細長いケーキ。雫型のクリームと、粉砂糖をまぶしたイチゴが上にのっている。

「お飲み物もすぐにお持ちいたしますね」

 店員が去って、ケーキだけがテーブルの上に残される。
 しかしどうせなら、紅茶が来てから食べたい。それは二人に共通する思いだったらしく、スプーンは未だプレートの上に置かれたまま。

「そういえば、水崎はあの後どうなったんだ?」

 頼んだ紅茶が来るまでの間。包帯を見ていると、寂しそうな少女の姿がちらついた。

「あのあとって、一昨日の?」
「ああ。ずいぶん具合悪そうだったから」
「それなら大丈夫。彩葉が行ったときにはピンピンしていたよ」
「そうか」

 体調を崩すことが珍しい人でもないので、言葉にするほど心配はしていない。
 ちょうど頼んでいた紅茶、正確にはアイスティーが、テーブルに運ばれてきたので、この話は打ち切りになると思っていたのだが、

「拓夢って、心配する気持ちがないわけじゃないんだよね」

 いただきますと手を合わせた彩葉が、まずは生クリームの浮かんだアイスティーを一口飲んだ。

「それが?」
「いや、ただ、波音のことは心配するくせに、彩葉は心配されたことないなって」
「当たり前だ」
「むっ」
「日頃の行いを思い返せ」

 人を散々バカにする、振り回す、蹴られたことだってある。そんな相手に、大丈夫かと尋ねる物好きはいない。心配するだけ無駄どころか損になってしまう。

「冷たい」
「基本的に冷淡な人間なんだ」
「ふーん」
「……なんだ?」
「基本的に冷たい人間が、波音のことは心配すんだねって」

 失言だったと気づくには、少し遅すぎた。

「病人のことを心配しないほど人間を捨てた覚えはない」
「うんうん、それだけ波音が大事ってことだよね」
「妙な勘違いはするなよ」
「事実だよ」
「ニュアンスが違う」
「でも、喜ぶよ、絶対に」

 年頃の少年にとっては、うかつな発言だった。これでは彩葉の格好の餌で、青春のつまみにされてしまう。先ほどのやり取りの二の舞だ。

「喜ばない。そもそも、大事と心配は違うだろう」
「大事だから心配するの。同じだよ?」

 対抗しようと思うのだが、どうにも言葉が浮かばない。二つくらい浮かんだ選択肢は、どれも彩葉が揚げ足をとりそうなものばかりだったので、口に出す前に呑み込んだ。
 彩葉は楽しそうだ。それはもう、獲物を見つけた鷹のように目が輝いている。
 拓夢はフル稼働中の思考を休めるため、ケーキを口に運ぶ。

「否定しないでよ。喜んでくれるのはいいことだよ」
「心配されたくらいで喜ぶようだったら、あいつは相当幸せ者だな。色々な人から心配されることが日常茶飯事だろう」
「違う、拓夢だから喜ぶんだよ」

 これ以上迂闊な地雷を踏みたくない拓夢は、もう一口ケーキを食べる。
 さり気なく、照れ隠しでもあったが、

「――優希が」

 照れる必要はどこにもなかった。

「……なるほど、お前だけが敵でなかったことを忘れていた」


あの日のガトーショコラ

「保健室に持っていったガトーショコラ、お前も食べたんだろう? どうだった?」

 ガトーショコラを作ったのは、調理実習のときで四度目。一度目に作ったときは、彩葉に食べさせた。当時の彩葉の感想は「すごくぼこぼこなんだけど、毒でも入っているの?」忘れることのない屈辱的な一言がきっかけで、ガトーショコラだけは比較的形のいいものが作れるようになった。

「普通によかったよ。戦の中で作ったとは思えないくらい」

 案の定、彩葉も貶してこない。

「だろう」
「形が」

 突っかかる言い方だが、これが彼女の最大の褒め言葉であると思ってしまえば可愛いものだ。

「ああ、あれはなかなかの出来だと思った」
「波音は喜んでたよ。彩葉はさておき」
「さておくな。というか、なんでさておくんだ」

 苦虫を噛み潰したかのような表情に、明るい言葉は望めそうにない。
 今回のガトーショコラ、拓夢はもちろんのこと、調理実習で一緒だった陽介と健太郎にも食べさせている。一般的な味覚をもつ二人が「美味しい」と評価したので、味が悪いわけではないはずだが。

「そうだね。ちょっと痛かったから」
「痛かった?」
「実は、ガトーショコラを切り分けるためのナイフを取りに行った波音を探しに家庭科室に行って」
「ついでにフォークもなかっただろう」

 波音一人に差し入れするつもりだったので、フォークは一人分しか渡さなかったのだ。
 もちろん彼女一人で食べることはないと予想はついていたので、

「やっぱり確信犯」
「水崎が家庭科室に来たっていうのは予想外だったが」
「ということは、彩葉たちに取りに行かせるつもりだったと」
「家庭科室の惨状を見てほしくてな」

 彩葉から非難の視線を浴びる。非難というよりは、わざとらしく呆れている。

「はあ、その気遣いのおかげで名誉の傷ができたんだけど」
「なぜ?」
「家庭科室に入ったら、急にナイフが飛んできたの」
「ああ、それはご愁傷様」

 拓夢のクラスの調理実習では珍しいことではない。

「それで腕をすぱっと切っちゃって」
「だから長袖だったのか」

 ワンピースの上に薄いカーディガンをはおっている彩葉の格好に、ようやく納得がいった。ここ最近半袖を着ていた彩葉でも、傷は隠したかったらしい。

「波音が怪我したんだねって、すごく喜んだ」
「……なあ、ガトーショコラは?」


今後の予定

 ケーキを食べ終え、アイスティーだけがグラスに半分残っている。
 彩葉も拓夢も、合わせることなく食べるスピードが一緒だ。

「ねぇ、あとは何を買えばいいの?」
「そうだな、あとは、食材だけだ」

 アイスティーを飲み終えたら、パーティーのための買い出しが再開する。パニック状態の拓夢に引き回されていたため、どんな料理をこしらえる気なのか、彩葉は全く把握していない。

「えっと、何を作る気なの?」
「まだ決めていない」
「決めてないのに買い出しするつもり?」
「買いながら何を作ろうか考えようと思っていたんだ」

 無茶苦茶だが、拓夢には知識がある。本棚の三分の一が料理本にうめつくされている彼なら、食材を見ただけで料理が思い浮かぶのだろう。

「へぇ」
「種類はたくさん作るつもりだ。予算は多めにもらっているからな。この機会に、作ってみたいと思っていたものを、少量ずつ作る」
「一つ、聞いてもいいかな」
「どうぞ」
「彩葉がついてきた意味、ある?」

 それは、朝家から引きずり出されたときからずっと考えていたことだ。料理そのものは拓夢が作り、彩葉は盛り付けをする係。拓夢ほど知識を持ち合わせていない彩葉が食材の買い出しに役立てるとは思えない。いや、全く役立てないとはいえないが、

「もちろん、荷物持ちだ」
「なるほど。料理がんばってね」
「怒るのか」
「人選を間違えたね」

 彩葉は少々、ご立腹の様子。


荷物持ちはご機嫌ななめ

「あーあ、なんだかなぁ……楽しみ」
「癪に障る言い方だな」

 彩葉が豪快にアイスティーを飲み干す。酒を煽る勢いだ。

「楽しみっていってるのに?」
「じゃあ聞くが、何が楽しみなんだ?」

 問題はそこだ。
 拓夢のグラスも空になったところで、彩葉がにぃっと口角をあげる。

「拓夢がシェフってところが」
「だからお前を呼んだんだろう」

 知識だけで綺麗な料理は作れない。そんなことはわかっている。

「へぇ、とうとう自覚しましたか」
「お前たちがしつこいからな」

 不器用だとからかうのは彩葉だけではない。

「じゃあ彩葉は荷物持ち?」
「根にもつな」
「凝った料理の割に、形が残念だなんて……可哀想なパーティーになっちゃうね」
「一人で人混みを歩くのが嫌だったとでもいえばいいのか」
「その方がマシかな。ごちそうさまでした」
「マシって……」

 よほど荷物持ちが嫌らしい。女の子扱いされないことに怒っているわけでもないだろうに、なぜ機嫌を損ねたのかがわからない。

「悪いけど、そんなに荷物もてる自信ないよ」
「そんなに持たせる気もないが、なぜ?」

 彩葉が席を立ち上がる。ワンピースの裾がひらり揺れる。

「勘」
「勘って……」

 自分のことなのに、勘なのか。
 彩葉が一瞬顔を歪め、それが何だったのかよく分からないまま、拓夢も席を立った。