【学校編1-3】

誰も知らないハーブ園



 校舎を出て、裏庭を過ぎり、先の見えない階段を駆け上がった場所に、小さなハーブ園がある。
 もともとは、茶葉研究部が管理していた場所らしいが、一昨年廃部になってからは、園芸委員会の管轄下におかれている。立派なハーブ園を捨てるのは惜しい、という単純明快な理由で管理を続けることになったらしい。
 さらに歴史を遡ると、ここは焼却場だったらしいが……今ではレンガで造られた円形の花壇がほとんどのスペースを占めている。花壇は六つのブースに区切られていて、ラベンダー、カモミール、ジャスミン、バジリコ、ムラサキバレンギクなど、ハーブティーとして有名なハーブばかりが植えられている。

「――いない」

 その小さなハーブ園に、彩葉の姿はあった。
 園芸委員会に所属する彼女は、ここの管理を担当している。

「どこに行ったのかな……」

 森に埋もれたハーブ園、人の気配は全くしない。
 彩葉はしゅんとうなだれて、階段を降りていく。両手には、それぞれジョウロが握られている。
 水汲み場は、階段を降りたところにある。ホースはもちろん届かないので、いちいちジョウロで水を運ぶ。
 花壇の管理は本来なら二人一組で行う。ところが、彩葉のペアはサボり魔だ。花の水やりはもちろんのこと、水汲みすらしたがらないので、彩葉はいつも一人で水を運ぶ。
 水の入ったジョウロは重い。そのため、彩葉の手にはまめができている。せめてサボり魔に水汲みだけでもさせたい。その思いゆえに毎回説得した結果、彼はとうとうハーブ園に来なくなってしまった。
 ここには何もない。だから、生徒も教師も誰も来ない。サボり場所としては好適地だったため、サボり魔の彼が来ないことはなかった。それなのに。

 ジョウロを持って階段をのぼり、ハーブ園に足を踏み入れる。
 誰もいないこの場所は、風のそよぐ音しか聞こえない――。

◆ ◆ ◆

「あれ、陽介は?」

 委員会が終わった後、彩葉は真っ先に十二組の教室を訪れた。
 ところが、教室にいたのは拓夢だけで、陽介はいない。

「そういえば、帰ってきてないな」

 拓夢も、陽介がいないことに今気づいたようだ。
 後ろを振り向き、顔をしかめる。

「あいつ、結局サボったのか」
「サボるのはいいんだけど、一度、話し合わなくちゃいけないと思うんだよね」

 彩葉は教室の窓から離れ、十二組の教室に入った。陽介の席に近づいて、無防備なカバンに手をのばす。

「一応注意するが、人のカバンをあさるのは犯罪に近い行為だぞ」
「犯罪に近いってだけで、犯罪じゃないよね? 被害届けが出されなければ大丈夫だよ」
「常識的に考えろ」
「常識なんて人によって違うよ」

 陽介のカバンには、必要最低限のものしか入っていない。だから、彩葉が探していたものは、すぐに見つかった。
 拓夢が呆れるその傍で、彩葉は陽介のスマートフォンだけを机に置いて、カバンのファスナーをしめる。

「何をするつもりなんだ」
「拓夢、まだここにいる?」
「いろと言うのか?」
「言わないよ。ただ、陽介が帰ってきたとき、カバンを返して欲しければ彩葉に電話しろって伝えてほしいな」

 陽介のカバンを肩にかけ、彩葉が教室を出ていこうとする。――が、拓夢に腕を捕まれた。

「待て。どこにいく気だ」
「陽介を探す旅」
「ここで待っているという選択肢はないのか」
「現行犯の方が説得力が増すかなって」

 にこっと笑う彩葉の背後に、静かな闘志が揺らめいている。
 これは本気で怒っている、と察した拓夢は、心の中で陽介の無事を祈りながら、獰猛な獣になりつつある彩葉の腕を離した。

「……陽介なら、さっき中庭の木の上にいた。一応声をかけたが、戻ってきてないということは、たぶんそこにいるはずだ」
「中庭か。ありがとう。行ってみる」


 彼の言葉通り、校舎の中庭に足を運ぶと、木の上に陽介を発見した。
 見上げて歩かないと分からない場所で、呑気に惰眠をむさぼっている。
 これは、許されざる状況だ。
 彩葉はカバンを地面に置くと、早速木を登りはじめた。近くの枝を掴み、ぐっと体を持ち上げる。
小柄な彼女はすいすい木を登っていき、陽介の近くに辿り着いた。

「陽介、起きて」

 かなり近い距離で声をかける。
 陽介はピクリと瞼を動かし、すぐに目を開ける。

「……なんでお前がいんだよ」

 陽介は心底嫌そうに、彩葉を睨みつける。
 安眠妨害の恨みは怖い。一般的な少女であれば、威圧的な不機嫌オーラに言葉を失ってしまいそうなものだが、彩葉はものともせず陽介と向き合う。

「陽介が今日も委員会さぼったからだよ」
「俺はいてもいなくても同じだろ」
「いいや、全然違う」
「違わねーよ。どのみち、もう委員会は終わってらぁ。用事ねぇなら、さっさと帰れ」
「用事あるから、わざわざ陽介探したの」
「じゃあ今聞く気分じゃねぇ」
「彩葉は今話す気分だからね」

 お互いに、譲らないのはいつものこと。
 陽介は夢の中に逃げようとし、彩葉はそれを阻止しようとする。だが、陽介は柵を気にせず流れる川だ。あっという間に眠りの中に戻ってしまう。

「ねぇ、陽介。せめて話くらい聞いてよ」

 こうなると、もう反応は何一つ返ってこない。
 彩葉は声掛けをやめ、枝の上に立ち上がる。そして、サーカスの団員並のバランス力を保ちながら、頭上にある枝をつかむ。陽介は、少し足を伸ばしたところにいる。

「陽介、これが最終警告だよ。起きて」

 不穏な空気が漂い始めても、陽介は目を覚まさない。聞こえていても、無視を決め込んだようだ。となると、彩葉がとる行動は一つ。
 彩葉は数歩後ずさって、思いっきり木を蹴った。そして振り子のように陽介に襲いかかる。
 遠慮も容赦もない、木から蹴り落とすための攻撃は、見事陽介にクリーンヒットした。陽介はバランスを崩し、地面に落ちる。小さな悲鳴はすぐに消えた。

「起きた?」

 彩葉は枝にぶら下がったまま、手を離す。そして膝を上手く使って、足から綺麗に着地した。
 枝と地面との距離はそう遠くないが、陽介は強く体を打ち付けている。

「――っ、いってーな緑川!」
「よかった、目が覚めたみたいで」
「覚めるどころか」
「これくらいじゃ永眠はしないよ」

 背中を強く打ち付けたらしい陽介は、苦痛で顔を歪めている。
 それでも彩葉は気にすることなく、爽やかな笑顔で陽介に迫る。

「どうして、ハーブ園に来なくなっちゃったの? この前、委員長が来て、彩葉が怒られたんだよ」
「知るかよ。あー……てめぇ、マジでやりやがったな。……いてぇ」
「理不尽に怒られた彩葉の心の痛みに比べると、そんなの全然痛くないよね」
「いてぇよ! 傷一つつかねぇ合金の心と、繊細な俺の体を一緒にすんな!」
「それで繊細? だとしたら、今日はじめて繊細って言葉を知ったよ。頑丈と類義語なんだね」

 軽口を叩けるうちはまだ平気だ。地面に膝をついて背中をさする陽介の前で、彩葉は正座する。
 改めて顔を覗かれて陽介は少し戸惑う。

「……んだよ?」
「どうして来なくなったの?」
「理由なんざ特にねーよ。ただ面倒だっただけだ」
「じゃあ明日からは来てくれるよね」
「面倒だっつってんだろ」
「ふーん。今日は痣で済んだけど、次は一本もらっちゃってもいいの?」
「一本?」
「うん、一本。足でも腕でも肋骨でも」

 暗に「骨折るぞ」と脅しているのだろう。可愛らしい顔していうことはヤクザだ。陽介の頬も自然と引き攣る。顔は笑っているが、目が真剣だ。

「いいわけねぇだろ」
「じゃあ明日から来てね」
「そんな脅しにのるわけ――」
「本気だよ?」

 有無を言わせぬ説得に、陽介は顔をそらすことしかできない。完敗だ。
 放課後の中庭に生徒の姿はない。だから、二人が黙りこむと、静かな時間がそこに生まれる。
 けれど、何かが違うのだ。一人のときと、二人のときとでは、身にしみる静けさが違う。

「……あのハーブ園、一人だと、寂しいんだよ」

 ぽつんと呟かれたその言葉が、陽介の耳に届いたかは定かではない。
 陽介は何も言わず立ち上がり、背中をさすりながら、保健室へと去っていったからだ。

◆ ◆ ◆

 水の入ったジョウロをもってハーブ園の入り口に立つと、久しぶりに笑みがこぼれた。

「背中、大丈夫だった?」
「大丈夫なわけねぇだろ。ひでぇ痣になってらぁ」

 目の前には円形の花壇の淵に腰掛け、枯れ草をいじっている陽介の姿がある。

「骨折れてなくてよかったね。さすが陽介」
「そもそも、人を木から蹴り落とすバカがどこにいんだよ」
「バカはいないけど、彩葉ならここにいるよ」

 珍しく起きている陽介の足元にジョウロを置く。すると、彼は露骨に嫌そうな顔をした。

「ぜってーやらねぇからな」
「やってなんて一言も言ってないよ。今日のところは、来てくれただけで及第点」

 早速、彩葉はジョウロをハーブに傾ける。
 一人で水をやるのはいつものことだ。それでも、陽介がいるのといないのとでは全然違う。
 ただ今日は、やけに視線を感じる。彩葉が怪訝そうに振り向くと、陽介が怖い形相で彩葉を睨んでいる。一瞬「怒ってる?」とも思うわけだが、だとしたら、陽介がここに来るはずがない。

「どうしたの?」
「なにがだ」
「なんで彩葉を睨むの?」
「睨んでねぇ。さっさと終わらせろ」
「早く帰りたいなら、そこにあるジョウロ使ってくれてもいいんだよ?」
「やらねーっつってんだろ」
「……変な陽介。背中だけじゃなくて、頭も打っちゃったかな」

 うーんと首をひねりながら、また水やりを再開する。話しているときは一度も目が合わないくせに、目をそらすとどうしてだか視線を感じる。
 何がしたいのだか、皆目検討がつかない。

「そんなに花の水やりしたいならすればいいのに……」
「あ?」
「ううん。背中に大きな痣ができているんだったら、叩くだけで痛いよね。可哀想にって思っただけ」
「また脅すのか」
「脅してなんかないよ」
「脅してんだろ。登校拒否すんぞ」
「誰得でもない上に、損するのは陽介だけどね」
「……可愛げねぇよな、お前」

 失礼な、といいつつ、彩葉は朗らかに笑う。
 いつもの委員会の時間が戻ってきた。