春が過ぎ去り、夏がやってこようとしている、季節の境目。
桜の花は散り、葉が生き生きと生気を取り戻す、梅雨前のある日。
アフターディナーティーの時間に、拓夢は一人紅茶を淹れた。家の中には誰もいない。一人ですませた夕食後、彼は外の風にあたりたくなって、ティーカップを持ってベランダに出た。
こぢんまりとしたベランダには、四人がけのテーブルと椅子が置かれている。しかし椅子に座る気分ではなかったので、拓夢は木製の手すりに背を預け、一人静かに紅茶をすする。
木々のざわめき、蛙の鳴き声、少し早い風鈴の音。こうして薄暗い場所で紅茶を飲んでいると、夜の静けさが身にしみる。
「こんな時間に何をしているの?」
そんな心地良い夜の陶酔は、呆気なく終った。声に反応して、拓夢は嫌々振り返る。
「……こんな時間になぜ出歩いているんだ?」
暗闇の中にたたずんでいたのは見慣れた顔。小さな友人が嫌いなわけではないが、今はただ、一人がよかった。だから自然と声も低くなる。
「拓夢の姿が見えたからだよ」
彩葉はベランダの柵に手をかけ、ひょいと体を持ち上げた。地面についていた足が浮かび、柵を軽々と飛び越える。柵の高さは地面から測ってちょうど彩葉の背丈ほどあるため、彼女の跳躍力が人並み以上に優れていることが分かる。まるで猫のようだ、と彼は思う。いや、猿か。
「美味しそうだね」
「……飲むか?」
「何のお茶?」
「アールグレイ。ストレートがダメならミルクもある」
「飲む! ストレートティーで」
「分かった」
拓夢は残っていた紅茶を飲み干し、ベランダの戸から家に入る。
作りすぎた紅茶は、ちょうど二人分余っている。ポットに触れるとまだ温かい。 二つのカップに紅茶を注ぎ、ベランダに戻る。彩葉は椅子に座って、足をぶらぶらさせながら待っていた。カップを受け取ると、足の動きはピタリと止まる。
「ありがとう」
カップに口をつけて、紅茶を一口。それからまた足をぶらぶらさせ始めた彩葉を眺めながら、彼は考える。
彩葉は夕暮れ時、ベランダから子猫のようにそっと入ってくることはよくあるが、夜に来たことは一度もなかった。そもそも、アパートからベランダの様子を伺うには、玄関を開ける必要がある。こんな時間に、外に出て何をしようとしていたのか。
「……不安、なのか?」
導きだされた結論に、黙々と紅茶を飲んでいた彩葉は首を傾げた。
「さっきから、落ち着きがないように感じる」
「そうかな?」
「お前の兄は、まだ帰ってきてないのか?」
図星だったのか、彩葉の足がまた止まる。
「どうしてそう思うの?」
「俺の姿が見えたってことは、夜中に玄関を開けたんだろう? なかなか帰ってこないから心配になって、外の様子を見たんじゃないのか? そこでたまたま、ベランダに人影を見つけた」
彩葉は兄と二人で向かい側にあるアパートに住んでいる。その兄が夜の九時を過ぎても帰って来ない。
彩葉のそわそわした様子を見るかぎり、連絡があったわけではないのだろう。連絡があったとしても、夜になるまで帰って来ないとは思ってなかったに違いない。そう、拓夢は勝手に推測する。
「……そういえば、拓夢のお兄さんは?」
彩葉は正解とも不正解ともいわないまま、話を逸らす。
「今日は帰ってこない。泊まりの仕事らしい」
「外で待ってたわけじゃないんだね」
「そういう気分だったんだ」
「ふーん」
拓夢もこの一軒家で両親と暮らしているわけではなく、二人の兄と三人で暮らしている。ただし、拓夢の兄はどちらも成人で、今では立派な社会人だ。家に帰って来ないことも多く、三日間連絡がなくても心配することはない。ところが彩葉の兄はまだ学生。しかも責任感の強い男だ。彩葉を一人にして朝帰りすることなど、よっぽどの事情がない限り、まず考えられない。
彩葉はカップを両手で包み込み、ふぅと息を吐き出す。
「紅茶、美味しいね」
素直な感想に、拓夢の頬も自然と緩む。
「落ち着くだろう。不安なときも、紅茶を飲めばとりあえず落ち着く」
「なんだか、お洒落な落ち着き方だね」
「そうか?」
彩葉が首を縦に振る。眠そうに、ゆっくりと。瞼は半分降りていて、今にも眠ってしまいそうだ。
「……眠いんだったら、家で大人しく待っていればいいものを。何の連絡もなかったのか?」
今度はぶんぶんと首を横に振る。
「遅くなるって言ってたけど、そろそろ帰ってくるんじゃないかなぁって。だから心配」
「……早く帰ってきてほしいんだろう?」
「いいや、全然。だって夜中に出歩いたっていうのがバレたら、一時間くらいは説教されるもん。今は帰ってきてほしくないなぁ」
彩葉が心配していたのは、別の問題だったらしい。道理で落ち着きがなかったはずだ。
拓夢は呆れ半分、すぐに追い返さなかったことへの後悔半分を、ため息にかえて吐き出す。
「早く帰れよ」
「すぐ帰ろうと思ったけど、紅茶飲むの久しぶりだったから、つい」
彩葉はカップに残っていた紅茶を全部飲んで、テーブルに置く。
「紅茶が好きなら普段から飲めばいいだろう」
「烈火くんが紅茶嫌いだからね。一緒にお茶飲みたいから、いつもは緑茶を飲んでるの」
意外だ、と拓夢は思う。兄と一緒にお茶を飲みたいから。それだけの理由で好きなものを我慢するのか、と。普段の悪意に満ちた行動と言動からは想像もつかないほどかわいらしい理由に、思わず紅茶を吹き出しそうになる。彩葉らしくない。
「ごちそうさまでした」
とはいえ、そんな失礼な感想を口にしたら最後、無邪気な笑顔で心を抉られそうだったので、浮かび上がった言葉は吹き出しそうになった紅茶で流し込んだ。
「ああ。早く帰った方がいい」
「バレても拓夢に誘われたっていうから大丈夫だよ」
「――どこが大丈夫なんだっ。早く帰れ」
声を荒げる拓夢を笑いながら、彩葉はひょいと柵を飛び越える。
彩葉の兄なら、本当に胸ぐらを掴みかねないので、拓夢にとっては笑いごとではない。
「あ、そうだ」
そのまま帰っていくのかと思いきや、三歩進んだところで彩葉はくるりと振り返った。
「今度は何だ?」
「また一緒に紅茶飲もうね」
「夜以外にな」
拓夢の声が、彩葉の背中に届いたかどうかは定かではない。彼女は言うだけ言って、アパートに戻っていった。眠いのか、ふらふらと足元がおぼつかない。まるで酔っ払いだ。
「……分からない奴」
置かれた立場が似ているからこそ、妙に親近感がわく小さな友人。
あの小さな少女の両親は今どこで何をしているのだろうか。どうしてあのアパートに兄と二人で暮らしているのだろうか。無粋な疑問が浮かんでは、消えていく。
「知りたい」と思うほどには仲がいい。けれど「どうでもいいか」と思うほどの仲でもある。
睡魔を背負った小さな後ろ姿が、ようやく見えなくなった。足音一つしない、落ち着いた時間が戻ってきた。
拓夢は残っていた紅茶を飲み干して、空を見上げた。星も月も見えない空なので綺麗とも美しいとも思わないが、なんとなく、空を仰ぎたくなったのだ。
「今度は、お菓子でも作るか」
そう、呟きながら。