ティーカップに注がれていく琥珀色の紅茶から、マスカットのような爽やかな香りがふわり広がった。今日の紅茶は、ダージリンのセカンドフラッシュだ。
一口飲むと、すっきりとした渋みが舌に広がる。唇からカップを離すと、マスカテルフレーバーの名に相応しい香り。高級な茶葉を使用し、淹れ方にも申し分ない、午後三時のミッドデイティー。
昼下がりのベランダ、テーブルの上にかけられた淡いワインレッドのクロス。その上に並んだ無地のティーカップ、ティーポット、ケーキプレート。プレートにはケーキのかわりに変わった形のマドレーヌがのっている。数は二人分。一つは紅茶にミルクを注ぐ少年の分。もう一つはティーポットを置いて席についた少女の分。
柔らかな日差しの中で、二人のお茶会は始まった。
無言のまま、はまずいです |
拓夢はティーカップを口に運ぶ。レイヤーカットで整えられたミルクチョコレート色の髪。落ち着いた色の双眸。その甘い色を内包した瞳が、ちらっと真向かいに座っている彩葉の姿を映す。肩で切りそろえられた枯れ草色の髪。拓夢を直視する抹茶色の瞳。物言いたげな視線が、拓夢をちくちくつつく。ちくちく、ちくちく。
拓夢は唇につけていたティーカップをソーサーの上に戻す。紅茶はまだ半分残っている。
「……何か、言いたいことでもあるのか?」
「このままじゃまずいよね」
神妙な顔つきでそう切り出されても、拓夢に思い当たることはない。
「何が?」
「だって、少年少女はかく語る、なのに何も喋らないんだよ」
「……じゃあ、何か喋ったらどうだ?」
「喋ることがないから静かなのに」
「たまには静かなお茶会でもいいだろう」
「いつも静かだからどうしようって話なのに」
そこでまた、会話が途切れる。拓夢は自分が語ろうという気はないらしく、無言でお茶を飲み続ける。すました顔で、黙々と。実際に聞こえるわけではないのだが、しーん、という擬音語が聞こえてきそうだ。
これはいかん、と彩葉は必死に考える。うーん、うーんと唸ること数分後。
「――はい! 整いました!」
何か思いついたらしい。
「どうぞ」
「緑川とかけて彩葉とときます」
「……その心は」
「どちらも私です」
どやっと彩葉の瞳が輝くが、拓夢は無情にも、ノーリアクション。
彩葉は何事もなかったかのように、カップに残っていた紅茶を飲み干す。
午後三時のお茶会、ですよね? |
テーブルに並んだマドレーヌは、形は歪だが焼きたてなので温かく、バターの甘みと香ばしい香りが紅茶を飲んだあとの口に合う。彼はマドレーヌを一口食べようとして、また彩葉のちくちくした視線に気づいた。
「ねぇ、このままじゃまずいよね」
「さっきのくだりはなかったことにするんだな」
顔が少し赤い気もするが。
「拓夢、何か話してよ」
「何かあったら話している」
「彩葉は頑張ったのに」
言いながら、彼女は視線を送る。不満と不服をないまぜにした、粘っこい視線だ。ずっと見られていると、集中して紅茶を飲めない。テーブルの下では、彩葉が足でつついてくる。この攻撃も地味に痛い。
「……わかったって」
あっさりと観念した拓夢は、しぶしぶ話すことを考える。しかし本当に、何もないのだ。これが驚くほどに。そんな表情が、拓夢に浮かんでいる。彩葉よりも苦渋に満ちている。
ふと、夕焼け色に染まった空を見ると、カラスが一羽、飛んでいた。
「……そういえば」
ついに、拓夢が口を開く。
「おっ」
「もう四時だな」
視線をカラスから腕時計に移した拓夢は、ぼそり呟く。
「…………そうだね」
現時刻は、午後四時三分。
少年は懐かしい過去をかく語る |
「……昔」
「いきなり!」
カップをソーサーに戻した拓夢は、唐突に語りだした。
「昔、俺には姉がいたんだ」
「うん、まあ、いっか」
「俺の姉は甘いものが好きだった。だけど変なこだわりがあって、巷で売っているありふれたお菓子は嫌いだったんだ」
「おっ、蝶々だ」
彩葉の目の前をふわふわと、白い蝶々が飛んで行く。
「誰もが食べられるっていう点が気に入らなかったらしい。だから姉は、素人が一から作るお菓子が好きだった。上手い下手関係なく、な」
「綺麗な羽だねぇ」
「けど姉は俺よりも不器用な人で、お菓子を作ることができなかった。台所を荒らす才能しかなかったんだ。そこで姉の代わりに、俺がよくお菓子を作っていた」
「なんていう蝶かな?」
「最初は強制的だったが、段々作るのが楽しくなって、一時期はお菓子作りにハマったな」
「あ、とまった」
拓夢の頭の上に。
「……久しぶりにお菓子を作ると、姉のことを思い出した」
拓夢は穏やかな表情のまま、テーブルの下にあった彩葉の足を思いっきり蹴った。彩葉の目尻に涙が浮かぶほど、だ。
「いったぁい!」
「会話は無理だな。かく語るのは諦めよう」
拓夢の頭で羽を休めていた蝶々が空に飛び立つ。
「ごめんって。ちゃんと聞いてたよ。えーっと、お姉さんにお菓子を作れと強制されたけど、結局気に入ってもらえなかったって話でしょ」
「……ああ、もうそれでいい」
「不器用なのはどうにもならないのにね。かわいそうに」
「かわいそうなのはお前の頭だ」
喉に流し込んだ紅茶が、少し苦かった。
まずは人の話を聞きなさい |
ポットの中の紅茶がなくなり、お菓子も冷めてしまったころ。
「んー、会話が続かない!」
カップをソーサーに戻した彩葉は、唐突に嘆きだした。
「続けようという気がないのはどっちだ?」
「このままじゃまずいよ」
本日何度目かの台詞に、拓夢もため息も大きくなる。
「まずいと思うなら、まずは人の話を聞け」
再び足を伸ばし、彩葉を蹴る。紳士あるまじき行いだが、拓夢にだって鬱憤が溜まっている。ある程度手加減しているのだから、これくらいは許してほしい。
「痛いってば!」
二度目の攻撃に彩葉は顔を伏せる。手加減はしているが、痛みを感じないのでは意味がないため、そこそこ力はいれている。
「紳士は暴力ふるわないよ!」
「悪いが、俺は紳士じゃない」
「じゃあ女なの?」
「どこからどう見ても女ではないだろう」
女装すればそれなりに似合いそうだ。
「そもそも、拓夢の話はちゃんと聞いているよ」
「どこが?」
「ただ、聞き流しているだけで」
「それを聞いてないというんだ」
「いいや、聞いてる」
「聞いてない」
「聞いてるよ」
「聞いてない」
「聞いてないことはないよ」
「聞いていないことがないことはないだろう」
「聞いていないことがないことはないことでないことが……」
ぽかんと彩葉は首を傾げる。唇がパクパク動いている。
彩葉はぐるぐる頭を回転させるが、やがて煙がぷしゅぅと立ち上る。
「勝った」
「……負けたっ」
ボケとツッコミ |
「問題なのは、ツッコミをいれてくれる人がいないってところだね」
なぜ会話が続かないのか、引き続き彩葉は反省を始めた。
「マンガや漫才もそうだけど、ボケの人はツッコミがなければただの痛々しい人だよ」
自爆のような発言だ。
「よかった。自覚があるならまだ救いようがある」
「だけど拓夢のツッコミは中途半端すぎる」
「別に漫才をやっているわけじゃないからな」
「ということで、次お茶飲むときはツッコミを呼ぼう。ツッコミなくしてかく語るは無理!」
「だからそれ以前の問題なんだ、お前の場合は」
拓夢の苦言が彩葉の耳に届くことはない。彼は言いながら、すでに諦めている。
「んー、誰がいいかなぁ」
「そもそも、ノリのいいツッコミキャラなんて、俺らの周りにいたか?」
「そうだねぇ」
彩葉は友人の顔をひとりひとり思い浮かべては首を傾げる。その様子を見守りながら、拓夢も友人の顔を思い浮かべる。脳内で探せば探すほど、候補はひとりひとり減っていく。検索対象を広げても、「これだ」という人がいない。つまるところ、二人の知人の大半は「痛々しい人」というわけであって。
「いないね」
「いないな」
類は友を呼ぶ典型的な例だ。
「仕方ない。拓夢が経験値を積み重ねてレベルアップするしかない」
「そんな経験値は積みたくない」
繰り返しいうが、拓夢の苦言が彩葉の耳には届くことはない。
お天気雨 |
「あ、雨だ……」
ぽつ、ぽつ、と雨がふりだした。気のせいかと彩葉が空を仰ぐが、水滴は頬に手の甲にと落ちてくる。
しかし空に雨雲の姿はない。山に沈みかけている夕日がベランダを温かく照らしている。
「本当だな」
「晴れてるのに、どうして雨が降るんだろう?」
「梅雨時期だからな。向こうの地域で降っている雨が風に飛ばされてこっちに来ているんだろう」
「ふーん」
小降りなのですぐにやみそうだ。彩葉は頬についた水滴を袖で拭った。
「面倒な季節だな」
ふと、拓夢は呟く。
「どうして?」
「雨の日は何かと面倒くさいだろ。傘を持っていくのも、さすのも面倒だ」
拓夢は雨の日が好きではないらしい。
「別に傘はささなくても死なないよ。濡れたら?」
「風邪をひきたくない」
「変なの。雨に濡れたくらいで風邪はひかないよ」
「バカは、な」
そう、バカは風邪をひかない。
「でも、彩葉は風邪をひかなかったよ?」
「だからバカは、な」
「彩葉が大丈夫だったんだから、拓夢も絶対大丈夫だよ」
彩葉がバカなら、拓夢もバカだよ。花咲く笑顔の背後から、そんな幻聴が聞こえてきそうだ。
「大丈夫じゃない」
「ふーん、拓夢はか弱いなぁ」
雨に濡れたくらいで風邪をひくだなんて、と。彩葉がくすりと笑い、拓夢の片眉がぴくりと動く。
「か弱くない」
「雨に濡れたくらいで風邪をひくんだもん。彩葉よりはか弱いよ」
「ひかない。ひいたことがない」
「風邪をひかないのはバカの証拠だよ」
「……性格悪いと嫌われるぞ」
言い返す言葉がなくなった拓夢は、腹いせに彩葉の無防備な足を蹴った。