【プロローグ0-1】

紅茶とお菓子と三時のお茶会



 太陽の日差しが柔らかく降り注ぐ午後の時間。夏を匂わせる風が吹き、ベランダの白いカーテンがはためいた。カーテンの動きに合わせて揺れる影、そこに密かに人影が合わさる。
 リビングに充満しているのは、甘いお菓子の香り。開け放たれた窓からその甘さは外に溢れている。
 リビングに隣接している台所には、少年の後ろ姿があった。オーブンのじりじりいう音と、食器や調理器具がガチャガチャぶつかる音。落ち着いた空間の中で、少年は黙々と洗いものを洗っている。
 水道の蛇口をひねり、水を出す。泡だった洗剤が排水口の中に流れていく。
 オーブンはまだ菓子を焼いている。少年は一瞥し、そして小さくため息をつく。

「家に入るときは玄関からが常識だ。なぜ貴様はいつもいつもベランダから入ってくる」

 少年がちらりと見たのはオーブンではなく、そのオーブンをじぃと眺めている小さな少女の後ろ姿。
 彼女はこの家の人間ではない。少年の言葉とおり、ベランダからこっそり潜り込んできた曲者だ。しかし少年は、いつの間に現れたのかとか、勝手に入ってくるなとか、そういった言葉は一切口にしない。かつては苦言を呈したこともあったが、言うだけ無駄だと悟ったのはつい最近のこと。

「嫌だなあ、これは彩葉の親切だよ」

 その少女、彩葉は焼き菓子から目を離すことなく答える。彼女の興味は甘い匂いの発生源にしかないらしい。少年には目も向けない。

「親切?」
「うん。だって、玄関には鍵がかかっているからね。彩葉が玄関から入ろうとしたときには、拓夢が内側から鍵を開けなくちゃでしょ。だから拓夢の手を煩わせないように、あえてベランダから入るんだよ」

 確かに親切ではあるが、少年――拓夢の解釈は、明後日の方向を向いていた。

「ようするに、面倒だったんだな」
「違うよ。ベランダの柵をこえるのだって面倒だもん。でも、彩葉にピッキングなんて技術はないからね。ベランダから入るしかない」
「普通にチャイムを鳴らしてくれと、何度言ったら理解するんだ、貴様。突然現れると心臓に悪い」
「その割に全然驚いてなかったね」

 彼女は甘い匂いに包まれた一軒家の、斜め左隣にある小さなアパートに住んでいる。そのアパートの玄関から見えるのは、一軒家のベランダ。つまり、アパートの玄関から一直線に歩けば、一軒家の玄関ではなくベランダにたどり着くことになる。だから彼女はいつもベランダからの侵入を試みる。
 もっとも、ベランダの戸が開いていないときは、素直に引き返すくらいの用事しかないわけだが。

「いや、そもそも面倒なら来なければいい。誰もお前を呼んだ覚えはない」
「お菓子が彩葉を呼んだんだよ」
「幻聴だ」
「匂いだけどね」
「じゃあ幻臭だ」
「そんな言葉聞いたことないよ」
「俺だって聞いたことがない」

 拓夢は水切りに洗ったものを並べていく。菓子作りの器具に加えて、朝食のときに使った三人分の食器もあるので、水切りはどんどん賑やかになる。

「それにしても、拓夢ってお菓子作るんだね」
「久しぶりに、そういう気分になった」
「じゃあ、彩葉はタイミングが良かったかな」
「そういえば、何しに来たんだ、お前」
「たいした用事じゃないんだよ。ただ、ダージリンをもらったから、一緒にお茶しようって」

 彩葉がくるりと振り返る。あどけない顔につぶらな瞳。黙っていれば可愛らしい、そんな少女の手の上には、紅茶缶が乗っていた。

「九条のおばあちゃんがね、茶葉を貰ったからおすそ分けって言ってくれたの。ダージリンのセカンドフラッシュは高級品だから、拓夢にも分けてあげようと思って」
「……はあ」

 ようやく全ての食器を洗い終えた拓夢は、蛇口を止め、タオルで手を拭きながら、怪訝そうな顔をする。無邪気な好意ほど怖いものはないという悲しい経験談が「ありがとう」よりも「何を企んでいる」という懐疑心をあおる。
 拓夢の微妙な表情を読み取った彩葉は、明るい笑顔で続けた。

「えっと、日頃からいいものを献上しておくと、困ったときには助けてもらえるって、前に優希が言ってた。いいものだったらいいものほど、相手は恩を忘れにくくなるんだって。いいものすぎると逆に受け取ってもらえないから、そこそこのものが一番いいらしいけど」
「それは悪魔の悪知恵だ」

 ひけらかすものではない。

「拓夢はストレートティーがいい? それともミルクティーがいい? たぶんどっちも美味しいよ」

 拓夢の苦言を無視して、彩葉は早速戸棚をあさる。自分の家ではないはずだが、ガラスのポットやティースプーン、茶こしを迷うことなく取り出していく。

「……お菓子がマドレーヌだから、ストレートよりミルクティーの方が合いそうだな」

 唐突な彩葉の提案だったが、彼に拒む気はないようだ。乗り気でもないようだが、仕方ないから付き合ってやるといった顔をしている。

「マドレーヌだったんだ、あのお菓子」
「なんだと思ったんだ?」

 彩葉は水道水をポットにいれ、クッキングヒーターにかける。そして冷蔵庫からミネラルウォーターと、食器棚からティーカップをそれぞれ取り出した。白磁のティーカップだ。この一軒家には模様入りのカップがないので、迷うことはない。

「クラッシュクッキー、って言うっけ? あのぐしゃぐしゃってした感じの、ちょっと違うバージョンかなあって。だって、形が」
「形が?」
「マドレーヌにしては、いびつかなぁと」

 彩葉はちらりとオーブンを見る。透明な覗き窓があるわけではないのでハッキリとは見えないが、カップに入った生地がぼこぼこ膨らんでいる様子をうかがうことくらいはできる。マドレーヌにしては、形がおかしい。

「味がマドレーヌなら問題ない」
「……ぼこぼこだもん。かわいそうなマドレーヌ」
「何か言ったか?」
「不器用だけど几帳面な拓夢が作るお菓子なら、見た目に間違いがあっても中身は安全だよねって言っただけ」
「文句があるなら食べるな」
「文句じゃなくて事実」
「事実でも少しは気遣え」
「気遣ってあげたから柔らかい表現だったのに」

 彩葉の目に映ったマドレーヌは、ぼこぼこでかわいそう、以上に悲惨な形状らしい。

「……腕が鈍っていただけだ」
「お菓子作りで大切なのは手先だけどね」

 本当に可愛げがない。黙っていればいいものを。
 拓夢はまくっていた袖をおろすと、目の前にあった小さな頭に拳骨を落とした。生意気な小娘とは身長差があるので、落とした拳には威力があった。

「いたっ」

 彩葉の反応も上々。

「外で飲むんだろう? 用意してくる」
「こんな幼気な少女に八つ当たりとは!」
「幼気な少女に八つ当たりした覚えはない」

 どこに幼気な少女がいるんだ。
 彩葉は痛そうに顔をしかめているが、反省する気はない。
 彼は台所を出てお茶会の準備をはじめる。背後でチン、とオーブンが音をたてた。彩葉の言葉を借りて言うならば、かわいそうなマドレーヌが焼きあがったらしい。

 穏やかな昼下がりの、とある一軒家での出来事。