【霧夕拓夢はかく語る】

ガトーショコラは夢を見る



 久しぶりの調理実習で浮き足立っているからだろうか。それともこれが、正しい調理実習のあり方なのだろうか。家庭科室の入り口に近い台から、紫色の煙がもくもくと立ち上っているように見えるのは気のせいか。これは理科の実験ではなく、調理実習だ。紫色の煙が発生する料理、一体どこの民族料理だろう。間違っても食べたいとは思わない。
 湯気というには濃密で危険な煙を換気するため、何人かの生徒が窓を開けた。穏やかな昼下がりには不似合いな紫色だ。

 この煙の発生源である鍋をかき混ぜている女子生徒は「平気平気」と言って(生物兵器かもしれない)料理を作り続けている。一体何を根拠に「平気」だと言っているのだろう。紫色の煙から発生している(と思われる)家庭科室に漂う異臭(たぶん、料理の匂いじゃない)は、他の台で鋭意製作中の料理にも影響を及ぼしそうなくらい強い。

 まあ実は、この他にも電子レンジが爆発したり、ガラス食器が盛大な音をたてながら割れたり、鍋から火柱があがっていたりと、調理実習にしてはシュールな光景があちらこちらで繰り広げられている。実習というより、テロリストの暴動だ。(当然だが)巻き込まれたいとは思わない。巻き込まれないためには、出来る限り距離をおくことが大切だ。

 家庭科室の(人目につかない)片隅で、霧夕拓夢は大きなホールケーキの二分の一を三つに切り分けていた。均等なサイズにはならなかったが、見た目は悪くない。
 彼は切り分けたケーキを白い小皿にのせていく。装飾の少ないシンプルなガトーショコラ。それを座っていた少年二人が受け取る。
 一番大きなケーキは朽木陽介の手に、形の悪いケーキは矢野健太郎の手に行き渡る。拓夢の手元に残ったのは、小さいが形の崩れていないケーキだ。唯一のトッピングである粉砂糖がまんべんなくかかっている。

「いただきます」

 フォークで一口サイズに切り、口に運ぶ。オーブンで焼いたばかりなのでまだ温かい。チョコレートの濃厚な香りが絶妙だ。

「おっ、うめー。普通に食えらぁ」
「すっげぇ美味しい!」

 美味しく食べてくれるのであれば、作りがいがあったというもの。数々の妨害を乗り越えて完成させたケーキだけに感動も大きい。

「それはよかった」

 心からそう思う。テロリストたちが暴れまわる空間で、お菓子を作り遂げたという偉業は我ながら素晴らしい。
 拓夢は隣の台を一瞥する。あの台ではミキサーがうるさく鳴り響いている。ミキサーがかき混ぜている液体の色はグレーだ。青汁に対抗する、不健康食品でも作っているのだろうか。

「そういえば、飲み物を用意するのを忘れていたな……」
「俺は紅茶で」
「俺も紅茶! 砂糖多めがいい」

 彼らは最初から自分で飲み物を用意する気はない。もちろん拓夢は紅茶の淹れ方にこだわりをもっているので、やらせるつもりもない。
 ヤカンを出そうと調理台の下の棚をあさっていると、異臭問題が激しい議論に発展したのか、怒鳴り声が耳に突き刺さってきた。
 暴動を収めなければならない先生は、開始十分で早々に気を失った。今も家庭科室の片隅に放置されている。目が覚めたころには、凄惨たる光景に嘆くことになるだろう。
 やかんに水をいれて、火にかける。
 その間に、余ったガトーショコラにラップをかける。異臭がひどいので、早く隔離しないと臭いがつきそうだ。いや、もう手遅れかもしれない。

「うっせーな、あいつら」
「気にするな」

 口にスプーンをくわえたまま、陽介が鬼のような形相を浮かべている。彼は賑やかな場所が苦手だ。まして口喧嘩とヤジの嵐など、聞くに耐えられないのだろう。爆発するのも時間の問題だ。
 不穏な空気は秒ごとに重みを増している。

「と、言いたいところだが、放置するわけにもいかんな」

 ガトーショコラを持って、近くの窓に歩み寄る。異臭対策で窓は全開になっていたので、拓夢はそこから顔を覗かせる。

「ケン、頼みごとをしたいんだが」
「うぅ……拓夢、あいつら、なんであんなに血気盛んなんだよ」

 窓の下にうずくまっていた健太郎が顔をあげる。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 彼は不穏な空気を察知した瞬間に、窓を飛び出し、安全地帯に隠れたのだ。正しい判断ともいえる。ケーキは全て胃の中に収めたようだから、悪い気はしない。

「知らん……それより、これを第二保健室に持って行ってくれないか」
「第二保健室?」
「ああ。さっき水崎に世話になったから、その礼だ」

 数十分前に電子レンジの爆発音に驚き、包丁を滑らせ人差し指を切ってしまったのだ。保健室に行くと養護教員の姿はなく、代わりに顔見知りの女子生徒がいたから、簡単に包帯を巻いてもらった。ガトーショコラを多めに作ったのは、まだ保健室にいるだろう彼女へのお礼を兼ねた差し入れのため。

「なるほど」
「早く行け、異臭がつく」
「もう手遅れなんじゃねぇの?」
「食べられないことはない」

 健太郎の言葉を待たずして、窓を閉める。
 改めて家庭科室を見渡すと、溶岩鍋を作っていた班と電子レンジを爆発させた班が今にも暴動を起こしそうな雰囲気になっていた。

「陽介、食べ終わったか?」
「ああ、終わった」
「じゃあ手伝ってくれ」
「ヤダ、面倒くせーよ。俺は寝る」
「片付けるまでは寝させんぞ」

 盛大なアクビを吐き出す陽介を一瞥し、ブレザーの内側に手を入れる。

「つーかお前も大変だよな」
「だろう? 全く、風紀委員はろくなものじゃない。自分のクラスの揉め事は、自分の責任だと罰を受ける」

 そこからすっと出てきたのは、黒色の銃。銃口をそのまま喧嘩の源に向けて――。

「運が悪かったな」
「全くだ」
「知ったこっちゃねぇけど」
「ストレス発散だ。いくぞ」

 ためらいなく、引き金を引いた。賑やかな場所が嫌いなのは、何も陽介だけではない。
 銃声とともに、白いマグカップが砕け散る。
 その瞬間、クラスメイト全員の視線が一斉に拓夢を貫いた。先程までの喧騒が嘘のように静まり返っている。だがこれは、嵐の前の静けさに過ぎない。
 全員の注目が集まる中、拓夢は大きく息を吸う。そして、覚悟は決まった。

「――いいか、お前ら。他人のやっていることに文句がある奴は、まずは人が食えるものを作ってからにしろ!」
「作れねぇ奴はでしゃばんな。うっせーからよ」

 家庭科室の空気が凍りついたのは、言うまでもない。


 保健室に向かって進むガトーショコラは夢を見る。
 せめて、穏便にことが終わりますように、と。