【霧夕拓夢はかく語る】

雨の日の憂鬱


 あれは、もうずいぶん前のことになる。

 梅雨が始まったばかりの頃だ。空は曇天で、大粒の雨が地を打ち付けていた。俺は傘の下、横断歩道の信号が青になるのを待っていた。

 朝から晩まで降り続けている雨のせいで交通量は多く、道を歩く人は少ない。

 空はどこまでも灰色で、もう二度と晴れないのではないかとこのときは本気で思った。そんな馬鹿げたことを考えるほど、俺は暇だった。暇だったから、暇つぶしをしようと考えた。さて、何をして暇つぶしをしようかと考えたとき、斜め左前に立っていた中年男が目についた。

 その男はしわくちゃのスーツに身を包んだサラリーマンだった。それだけで大雑把な性格がうかがえるのに、加えて靴は泥まみれで、髪もボサボサ。この男は独身に違いない、そう思って男の薬指を見ると、やはり指輪はなかった。しかし右手しか見えない。左手も見えたら、確信がもてるのに。がんばって首を伸ばしたのだが、やはり左手は見えなかった。

 仕方なく諦めると同時に、信号が青に変わった。男が歩き出したので、俺もその後に続いた。歩きながら左に寄ると、男の左手が見えた。薬指に指輪がはまっていないことを確認すると、清々しいほどの満足感に満たされた。雨の日は実に憂鬱だが、探偵の真似事をすることでテンションが上がった。単純だが、このとき、この瞬間、俺の機嫌は非常に良かった。

 信号を渡ると、男はカクンと右に曲がった。機械のように精密な動きだった。

 男の姿を目で追いかけていたから俺もつい右を向いてしまったが、帰り道は左だ。方向転換しようと足を止めた――そのとき、俺は気づいてしまった。気づいてしまったのに、顔をそむけることができなかった。無理もない。なぜなら、道のど真ん中で傘もささず立っている知り合いの姿を見つけて、何事もなかったかのように振る舞う非情な人間ではないからだ。

 中年男が雨に打たれずぶ濡れになっている少女――おそらく、彩葉だと思われる――の脇を通り過ぎていった。目もくれなかった。赤の他人なのだから当然だろう。
 俺は雨に濡れた少女の後ろ姿を観察した。咄嗟に動けなかったのは、本当に彩葉かどうか分からなかったからだ。

 しかし、着ている制服や背丈髪型は記憶の中の彩葉と一致していた。雨のせいで見えにくいが、カバンについているクマのキーホルダーにも見覚えがあった。彩葉であるという根拠はたくさんあったので、俺は彼女に声をかけることにした。

 雨の中、道のど真ん中に傘もささず立っている彩葉の姿は異様だった。何をしているのか皆目検討がつかない。ただ、近づくにつれて彩葉の肩が震えていることに気づいた。

 そこで俺はまた一瞬躊躇った。俺には泣いているようにしか見えなかったのだ。年中春頭(脳天気、という意味)の彩葉がまさか雨に打ちひしがれながら泣いている、ということはないだろうと思った。しかしそう思う一方で、もしかしたら本当に悲しいことがあって泣いているのかもしれない、とも思った。ならばなおさら無視するわけにはいかない。これは彩葉をからかえるいい機会なのでは、と非情ではないかわりに善良でもない俺は考えた。

 彩葉は俺が近づいても気づいた素振りを見せない。もしかしたら気づいていないのかもしれない。人の気配に敏感で勘も鋭い彩葉にとっては、非常に珍しいことだった。
 彩葉を近くで見ると、制服のカッターシャツが透けてしまうほど濡れていることに気づいた。冷たそうな体だった。バカは風邪をひかないというが、そんなバカですら風邪をひきそうな有様だ。

 彩葉の真後ろに立ったのはいいが、いつもと違う雰囲気に戸惑い、どう声をかけていいのか分からない。だから、俺は静かに傘を差し出した。すると、彩葉はピクリと肩を揺らした。どうやら本当に気づいてなかったらしい。珍しいこともあるものだ、とこのとき俺は思った。いつもの彩葉とは違って可愛らしいな、とさえ思った。

「どうした?」

 俺の声に反応して、彩葉がおそるおそるといった様子で振り返った。怯える彩葉の姿がまたいつもとは違う――と首を傾げたところで、俺の思考回路は停止した。一瞬時間が止まったのかと思った。傘を打ち付ける雨音だけが妙に大きく響いた。世界から雨音以外全ての音がなくなってしまったのかと思うほどだった。

 目が合った。赤く腫れた目だ。彩葉の秋の空のように澄んだ瞳ではなく、黒く濁った瞳がそこにあった。濁っているのは、きっと泣いているからだ。綺麗な顔がずいぶん歪んでいた。それでも彼女は、目を大きく見開いて俺に振り返った。目が合った瞬間、心臓がバクバクした。バクバクしすぎて胸も頭も痛くなった。

「――んですか?」

 かろうじて喉の奥から声が出たが、不自然極まりないことは重々承知だ。それでも、まさか、まさか、人違いでしたとは言い出せないこの状況。頭の中は真っ白だった。

 向かい側の道路で、花柄の可愛らしい傘が動いている。俺は妙にその傘が気になった。視界の端にちらついたのだ。それからしばらくして、俺は致命的なミスをしてしまったことに気づいた。今朝、彩葉は花柄の傘を持っていたではないか……どうしてそんな決定打を思い出さなかったのだろう。道理でいつもの彩葉とは違うわけだ。いつもの彩葉、ではなく彩葉ですらなかった。

 全く知らない少女が俺の目の前にいる。先輩か後輩か同級生かも分からない。しかし、あどけない表情は後輩のように思えた。髪型や背丈は本当に彩葉そっくりだった。カバンについているクマのキーホルダーは、よく見ると彩葉が持っているものと服の色が違った。遠目では全然気づかなかった。

 気まずい空気の中で、俺は向かい側の歩道を歩いていた花柄の傘がいつの間にか止まっていることに気づいた。傘が少し持ち上がって、人の姿が見えた。少女だった。不躾なほどこっちを見ていた。俺はいたたまれない気持ちになった。

 向かい側の道路で、興味津々といった感じで俺を見ていたのが、本物の彩葉だった。

◆ ◆ ◆

 思わず赤面してしまうほど恥ずかしい経験をしてしまった俺は、いっそう雨の日が嫌いになった。
 彩葉は雨の日のあの出来事をしっかり目撃していたようで、噂はあっという間に広まってしまった。

 どんな噂かは、語るまでもない。
 片腹痛い思いで過ごした数日の後、雨は再び大地に降り注ぐ。

 雨を見るだけで胃が痛くなった。酷いトラウマだ。苛々するのも無理はない。たぶん、このときは殺気立っていた。
 もちろん、苛々の原因の三割はあの日のことを思い出したことにある。しかし残りは、傘がないことに対しての苛立ちだ。

 朝はあれほど晴れていたのに、なぜ雨が降る。しかも、家まで残りわずかなところでだ。
 真っ黒な雲から大粒の雨がいくつも落ちてきて、俺は慌てて近くのバス停に駆け込んだ。

 バス停には屋根がついていた。それだけが唯一の救いだった。
 目の前には中央線のない道路がある。

 道路にはすでにいくつかの水溜まりができていた。バス停と道路の間には縁石があるが、それは気休めにしかならない。嫌な予感はしていたのだが、かといって避けるすべもない。
 普通自動車が通るくらいならまだ大丈夫だったが、大型のトラックが目の前を横切ったときは、水しぶきが勢いよく俺に襲いかかってきた。

 屋根の下にいるはずなのに、ズボンはびしょびしょだ。

 幸いにも交通量の少ない道路だったため、連続で水を浴びることはなかったが、二回は水をくらった。
 もはや苛々しかしない。暴力的な気持ちになりかけていた。

 そんな俺の目の前に、見覚えのある傘が飛び込んできた。反対側の歩道を歩く、花柄の傘。
 今度こそ間違いない。あれは彩葉だ。

 雨がヴェールになって見えづらいが、あの傘の柄を間違えるわけがない。
 それにしても、なぜ彼女は傘を持っているのか、甚だ疑問だ。天気予報では晴れだったはず。
 雨の気配を感じ、直感で傘を持っていったのだろうか。だとしたら、彼女の野性的勘は賞賛に値する。雨に濡れず悠々と帰る彩葉の姿が憎たらしいことこの上ない。このときの俺に、余裕はなかった。
 悔しさを込めて睨みつけると、視線を感じたのか、足元を見ていた彩葉が顔を上げた。

 目が合ったような……気がした。

 狭い道路だ。いくら雨が隔たりになっていようと、顔さえ見えれば、お互いの姿が認識できないことはない。少なくとも俺は、花柄の傘の持ち主が誰なのかを確認することができた。見知らぬ人ではないことに安心した。もし見知らぬ人だったら、俺の視線は不審者以外の何者でもないからだ。

 俺はじっと彼女を見つめた。何かしら反応を、向こうが返してくれると思ったからだ。
 ところが、彩葉は目が合った途端、なぜか顔を逸らして、走って逃げた。

 ……人違いだったか? いやしかし、視力には自信があった。カバンについていたキーホルダーは、今度こそ間違いなく彩葉のものだった。髪型も背丈も、俺が知っている人物のものだった。顔だって合っていた。

 それなのに、奴は逃げた。全速力で逃げていった。
 呆然とする俺に追い打ちをかけるかのうように、トラックが通りすぎていった。服はもうびしょびしょだ。

「……あー、苛々する」

 雨の日は、ろくなことがない。
 彩葉がいっそう嫌いになった。

◆ ◆ ◆

 もしも俺の手元に銃があったなら、弾倉の弾がなくなるまで、引き金を弾いていたかもしれない。
 人を殺す気はないが、雨を殺したい気持ちはあった。

 引き金を弾いて、向かい側にある民家の窓を割ると、さぞ気持ちいいだろう。そんな発想が頭をちらつくほど、すさんだ気持ちになっていた。
 日頃穏やかな顔をしていても、本質はこんなものだ。暴力的で野蛮。

 雨は一向に止む気配を見せない。もういっそのこと、濡れて帰ってもいいのではないかと思った。いつまでもバス停の屋根の下、無抵抗のまま攻撃をくらうほど、自虐的な趣味はもっていない。どうせ濡れても、家に帰って風呂に入ればいいだけのことだ。雨に濡れたくらいで、風邪をひくほど弱い体でもない。

 ――風邪をひかないのは、バカってことだよ。

 そういえば、先々週の日曜日に、彩葉がそんなことを言っていた。
 思い出すと、彼女に対する不満がこみ上げてきた。
 あれは少しのことでも揚げ足をとる。自由奔放で、振り回されるのはいつも俺の方だった。それだけならまだいいが、彩葉によってもたらされた災難は数多くある。先日の噂がその例だ。彩葉は俺を容赦なく陥れようとする。嫌われているのかと疑ったこともあったが、屈託のない笑顔で話しかけてくるところをみると、そうでもないらしい。

 この雨のように気まぐれで、酷い。

 彩葉が俺にしてきた数々の所業は、決して看過できるものではない。しかし思い返せば、俺は彩葉に復讐じみたことをした記憶はない。一方的にやられっぱなしというのは俺のポリシーに反するのだが、なぜだったか。

 そこまで考えて、少し頭を冷やそうと思った。このままではどんどん、思考が沈んでいくばかりだと察したからだ。

 屋根の下から出て、目の前の歩道を歩く。
 穏やかな気温だったとはいえ、雨が身に染みた。冷たかった。
 制服のシャツが体に張り付いて、気持ち悪かった。早く家に帰りたかった。
 そのとき、足音が聞こえたような気がした。
 気になって顔をあげると、坂道を駆け下りてくる少女の姿が目にとまった。

「わーっ、なんで屋根から出てるの!」

 黒く淀んでいた思考に染み渡る声の主は、彩葉だった。
 彩葉は走って俺のところまでやってくると、傘を一本差し出した。大きな傘だった。

「もー、……せっかく……傘持ってきて……あげたのにっ」

 彩葉の息は乱れていた。それに傘はさしていたが、制服が濡れていた。走ったため、傘が職務放棄したのだろう。
 俺のためにそこまでしてくれたのかと思う反面、気持ちは土砂に埋もれていた。素直に礼を言う気持ちにはなれなかった。

「いらんお世話だ」
「……拓夢が、屋根から出るから、いらんお世話に、なっちゃったの」

 彩葉頬をふくらませて、むすっとした顔になっていた。
 しかしそうは言われても、まさか彩葉が傘を持ってくるとは思わなかった。想定外の出来事だ。
 なぜ逃げたのか疑問だったが、無視されたわけではないらしい。そのことに安堵した。

「一言言ってくれればよかったのに」
「どうせ雨の音で、聞こえないかなって、思ったから」

 ようやく息が落ち着いてきた彩葉に、改めて傘を差し出された。
 俺はまだ、受け取っていない。なぜか、受け取る気になれない。

「もしかして、拓夢は雨が好きだった?」
「お前のせいで嫌いになった」
「むぅ、何でもかんでも人のせいにするのはよくない――というか、彩葉は何もしてないよ」
「……まあいい。それより、お前びしょびしょになってるぞ」
「拓夢こそ人のこと言えないと思うけど、彩葉は大丈夫。体が丈夫だから」

 問題はそこではない。雨に濡れて、下着が透けて見えるところが問題だ。まともに目を合わせることができない。しかし本人は気づいていないようで、しばらくそっぽを向いていると、ぽかんと首を傾げられた。カッとなっていた心が冷めてしまうほどの、間抜け面だった。
 言うべきか、言わないべきか、迷った挙げ句いうことをやめた。
 そのかわり、俺は傘を受け取った。普通のビニール傘だった。

「まあ、一応、ありがとう」

 それから俺達は、歩いて五分の家路をのんびりとたどっていった。
 彩葉と他愛のない会話をしているうちに、すっかり荒れた思考は元通りになっていた。

 こいつのせいで、不快な思いをしたことはたくさんある。
 可愛らしい見た目に反して、容赦ない一面があることも知っている。

 それでも、隣を歩く少女は、やっぱり俺の友人だった。

 雨の日も、たまには悪くない。そう思えるくらいには。