「……とりあえず、社会科準備室に行くわ。あそこならストーブで制服乾かせるし、救急箱もあったし、奏先生もいるはずだから」
「妥当だな。俺も行こう」
「奏先生に用事?」
「ああ、巡回が終わったら顔を出すように言われている」
「まだ終わってないんじゃないの?」
「あとはこの校舎だけだった。三階にはさっきまでお前がいたんだろ? 二階は見てないが、まあ、問題ないだろ」
「鬼に襲われた被害者がここにいるんだけど」
「その被害者を奏先生のところに連れて行くんだ」
加害者を捕まえる気はないらしい。
捕まえたところで状況が好転するわけでもないので、どうでもいいが。
「二人とも準備室に行くのか? だったら俺もついていくぜ!」
「来なくていいから」
いいというより、うるさいので来ないでほしい。しかし歩はついて来る気満々で、颯爽と準備室に向かって歩き始めた。
少し歩いて、歩が振り返る。早く来なよと微笑まれる。なぜだか無性に腹が立つ。
「いつも思っていたんだが」
「何が?」
季砂の冷たい眼差しが突き刺さる。
「お前、厄介な奴らに好かれやすいな」
「……全然嬉しくない」
「正しい感想だ」
歩レベルの問題児に好かれて嬉しい、なんてほざくようになったら、いよいよ末期だ。
◆ ◆ ◆
社会科準備室のトビラをノックしても、返事は返ってこなかった。不在か、寝ているかの二択だ。
「見回りかもしれないな」
季砂がトビラを開く。室内は真っ暗だった。電気のスイッチを入れると、散らかった室内の様子が浮かび上がる。
(いつものことだけど、汚いな)
衛生的に汚いのではない。狭い準備室には資料を置くための棚が数台と、事務机が二つ、それから奥に小さな食器棚と手洗い場が備えつけられているが、どこを見ても物で溢れているから汚く見えるのだ。
棚には背表紙の高さがそろっていない資料を初め、地球儀や巨大地図、骨董品や用途が分からない教材が混在し、ぐちゃぐちゃに放置されている。壁には大きめの資料や日本刀が立て掛けられており、一部雪崩を起こして床を侵食している。
事務机にいたっては、右側の壁に寄っている机は綺麗だが、左側の机の上にはプリントが複数の山をなしている。少しでも風が吹くと、雪崩は間違いなく起こる。
「前来たときよりも悪化しているな」
「一週間前に掃除したばっかりなのに」
もちろん自分から進んでやったわけではない。強制的にやらされた。
何度掃除してもすぐに汚くなるから、いい加減やる気も失せてくる。
「香世、早くストーブで乾かせよな」
「言われなくても乾かすわよ」
ストーブは準備室の一番奥、窓際にある。
周りに紙が落ちていないことを確認して、電気ストーブのスイッチを入れる。
「如月、何がいい?」
その間に季砂は食器棚から電気ケトルを取り出して、水を汲んでいる。
「じゃあ、普通のお茶」
「俺もお茶がいい!」
「お前には聞いてない」
それでも季砂はカップを三つ用意している。優しいのではなく、歩の駄々に付き合うのが面倒なだけだろう。窓に映った季砂の顔は、明らかに疲れていた。
(歩がいると、急速に体力が削られていく気がする)
当の本人は相変わらずへらへらとした顔で――私をじっと見ていた。
「……なに?」
「寒くないか? そんなに濡れちゃって」
「別に、水の中に落ちたわけじゃないし。言うほど濡れてもないし」
準備室も冷えきっていたわけではない。体は体温を取り戻しつつある。
「でも、カーディガンは脱いでいるから寒いだろ? とりあえず、これでも着ておけよ」
準備室に来る途中、セーラー服の上に来ていた黄土色のカーディガンは、湿り気を帯びて気持ち悪かったから脱いだ……その代わりになるものを、歩は見つけてきたらしい。
気を使ってくれて嬉しい、などと戯言をほざくほど私も脳天気ではない。
「なんでよ、いらない」
「暖かいだろ? 無理するなって」
「……奏先生のでしょう、それ」
歩が私に手渡そうとしたのは、黒のトレンチコート。かの先生が外出するときにいつも着ている外套だ。歩の私物ではない。
「俺の上着の方がいいなら脱ぐぜ?」
「そういう問題じゃない! あんたには、常識ってもんがないわけ?」
人の物を勝手に使うなと主張したかったのだが、
「えぇ! 常識くらいあるぜ。寒いときはコートを着る」
伝わらない。
「こいつに、常識があると思っていたのか、如月」
「一応聞いただけ」
トレンチコートを(突き返すと歩が駄々をこねそうだったので)素直に受け取り、背中にはおる。歩は満足そうな顔をして、椅子に座った。来客用(主に補習で呼び出された生徒のため)に置いてあるパイプ椅子だ。
「なんだかんだ言って受け取るんだな」
季砂が呆れたようにため息をついて、ふと、何かに気づいたような顔をする。
「お前、頬の怪我を忘れていないか?」
「あ!」
指摘されて、思い出す。
頬にできた傷のことをすっかり忘れていた。
「俺が手当てしてやるぜ?」
「やめて。もっと酷くなるから」
「酷くはしないって」
準備室のどこかにあるはずの救急箱を取ってこようと立ち上がりかけたが、歩によってストーブの前に押し戻された。
「痛そうだなぁ」
片方の手で(逃げられないように)強く私の肩を押さえながら、もう片方の手で頬の傷に触れてきた。
季砂が触れてきたときは血を拭ってくれただけだったので痛みを感じなかったが、歩は傷口に指を這わせてきた。当然、痛い。ものすごく痛い。
「――っ、痛そうって分かってて、なんで触るの!」
歩の手を強引に押しのけて立ち上がる。
せっかくおさまりかけていたのに、また頬がじんじんと鋭い痛みを帯びてきた。
(やっぱりこいつ、最低!)
「血、止まってるんだな。良かったぜ」
「ちっとも良くないわよ!」
しれっと笑う歩の顔面に拳をのめり込ませたい気分だ。平手打ちでは物足りない。
「救急箱はここだったか?」
殴ろうか、諦めようか。悩んでいる間に、季砂が奏先生の机の引き出しから救急箱を出してくれた。
「……ありがとう。あとは自分でやる」
「そうか」
「俺がやってあげるって言ってるのに」
こっちから願い下げだ、と歩を鋭く睨んでから、救急箱を開けてみた。
消毒液、カットバン、包帯、湿布、鏡、ピンセット……一通りの治療道具はそろっている。
生傷の絶えない先生なので、救急箱の中身が充実しているのだ。
奏先生の机の上(正確にいうと山積みになったプリントの上)に鏡を置いて、傷を確認する。
ナイフがかすっただけなので大した傷ではないが、一直線に赤い筋が入っていて、それなりに目立っている。
消毒液を傷口にかけ、垂れた液体をティッシュで拭う。そして痛みをこらえながら、カットバンを漁った。
普通サイズのカットバンでは傷口を隠しきれないだろう。大きいサイズのカットバンなら、赤い筋を隠しきれるはずだが
「……貼った方が、目立ちそうだなぁ」
何も怪我を強調したいわけじゃない。
大した怪我でもなさそうなので、傷はそのままにしておこう思ったのだが
「カットバン貼らないのか? 傷を抉る趣味の奴とか、いるかもしれないぜ?」
そう言われては、貼らざるをえない。
「お前のことか、それは」
「なんで俺なんだよ?」
「さっき、えぐっていただろ」
「えぐってはいないぜ? 俺がそんな酷いことするわけないだろ!」
どの口がほざくか、と声を大にして言いたい。
「ただ、香世の傷が痛そうだったから――」
「もっと傷めつけてやろうと思ったんだろ? 悪趣味にもほどがあるな」
全くもって季砂の言う通りだ。
歩が反論しかけて、言葉を呑み込む。
正確には、突然開いたトビラに驚いて声が詰まったのだろう。
三人で一斉に振り返る。
「ここ……俺の部屋、ですよね」
開いたトビラの先にいたのは、黒いスーツに身を包んだ若い男性だった。格好はどう見ても学生ではないが、薄茶色の猫っ毛と優しそうな瞳のせいで童顔に見えて、歳の差を感じない。そんな先生だからこそ、
「違う、社会科準備室だ」
「何言ってんだ? 社会科準備室だぜ?」
「ここ、社会科準備室でしょう」
三人の声が見事にはもった。