三階の高さから飛び降りたが、雪がクッションの役割を果たして、想像していたほど衝撃はなかった。ただ着地のときによろめいて、前のめりにこけてしまった。
すぐに体を起こしたが、制服が雪でぐしょぐしょになっている。
防寒具を身にまとってなかったため、体が急速に冷えていくのが分かる。
(いやいや、そんなことよりも、早くここから逃げないと)
密閉された空間から脱出したとはいえ、鬼たちが殺害を諦めたとは到底思えない。
正直、上を見上げる勇気はない。
(きっとガン見してるわね。最悪の場合、飛び降りてくる可能性だってある)
いくら鬼とはいえ目立つところで人間を殺そうとは考えないはずだが、怒り狂っているのなら、冷静な判断を期待できそうもない。
右手には学内にある大きな湖が、左手には校舎が、前方後方には別校舎へとつながる道が続いている。
雪に埋もれて道そのものは見えないが、ここを真っ直ぐ走っていけば、部活動中の生徒たちがいるはずだ。
立ち上がると、雪がローファーの中に入ったせいか、足が少し麻痺しているのが分かる。
膝も痛いため、普段通り走ることはできそうにない。
(それでも、走らないと)
周囲に人の気配はない。
連れ込まれた場所は特別教室で、授業以外で使用されることはない棟にあるのだから、当然といえば当然だ。
そもそも、人が多い場所で堂々と殺人をやってのけるバカはいない。
前方に走ろうと決意を決めたそのとき、突然、左側にあった校舎の窓が開いた。
(な、なに?)
素早く懐中電灯を構えたが、窓から顔をのぞかせているのは――
「お前、今、空から降って来なかったか?」
「……季砂!」
引きつった顔で私を見る、黒髪の男子生徒だった。
私と同じ風紀委員の腕章をつけた少年――橘季砂。目つきの悪い少年だが、クラスメイトで、私の友人だ。
「なんだ、何なんだ。そんな泣きそうな顔をされても意味が分からない」
「泣きそうな顔にもなるわよ! 殺されかけたんだから!」
季砂は心底嫌そうな顔をしている。
私の態度と、置かれた状況を見て、何かがあったと察知したのだろう。
「……俺を巻き込むなよ?」
「まだ巻き込んでない」
「これからも巻き込むな」
「それは無理」
「無理じゃない。努力しろ」
季砂と話しているうちに、緊張の糸がほどけて体から力が抜けそうになるが、ぐっと堪える。上から鬼が降ってこないとも限らないのだ。
歩きづらい雪の上を横断し、季砂が開けた窓に手をかける。
いつまでも外にいては、凍え死んでしまいそうだ。
(うっ……手がかじかんでて、力が入らない)
体を持ち上げることに苦戦していると、突然季砂が私の手首を掴み、ぐっと上に持ち上げてくれた。
「ありがとう、季砂」
「これくらいは構わない」
室内の暖かさと季砂がいることによって、ようやく緊張がほどけたてきた。
安堵のあまり涙が出そうになる。
「お前、右頬から血が垂れてるぞ」
「知ってる。さっきやられたの」
季砂の手が私の頬に伸びてきた。どうやら血を拭ってくれているらしい。温かい手のひらの感覚が心地いい。
「いつまでも血を垂れ流しておくな。鬼が寄ってくるだろう」
「……ありがとう」
季砂の手が離れていくと同時に、外から鈍い音が聞こえてきた。
雪の上に、何かが落ちる音。
見るまでもないが、鬼が降ってきたのだろう。
窓の外に目を向けると、案の定、雪の上には鬼灯が立っていた。
「追いかけるにしては、ずいぶん遅かったな」
「鬼は光に弱いからじゃない」
季砂に懐中電灯を見せると、それもそうかと納得された。
雪の上に舞い降りた鬼灯は――目は笑っていないが、顔が笑っている、そんな表情をしている。つまり不気味だ。
「私は、ますますあなたを殺したくなったよ。如月香世」
私を見つけて、放った第一声がそれだ。冗談ではないのだろう。背筋が凍るような目で私を射抜く鬼灯は、本気で怒っているようだった。
(いや、さっきも十分怒っていたけど……さっきよりも酷くなったというか)
「次こそは確実に、仕留めてみせよう」
捨て台詞のようにそう言って、鬼灯が去っていく。
今この場で殺すという考えはないらしい。季砂がいると都合が悪いのかもしれない。
「……今日から四六時中季砂にくっついていようかしら」
「だから俺を巻き込むな」
季砂が窓を閉める。
外の音が遮断されて、静けさが増した。
「奏先生に相談すればいいだろ。何かしら策は打ち立ててくれると思うが?」
「これも訓練の一つですから頑張ってください、とか言いそうじゃない?」
「何もしないよりはマシだ」
それもそうかと納得する。
このまま理不尽に殺されるのを待つよりは、生徒指導の奏先生に相談した方が生存率は上がるだろう。
(それでも、確実に鬼灯を止めてくれるわけじゃない)
鬼に目を付けられた以上、戦って勝つ以外に生き残る道はない。
全寮制の閉鎖された学園だから、逃げ場もない。
(本当に、どうしろって言うのよ)
懐中電灯を握る手に力をこめた――ちょうどそのとき。
「おーい、二人とも! こんなところで何をしているんだよ!」
場違いなほど明るい声が廊下に響いた。
季砂と顔を見合わせ、同時にため息をつく。この明るい声に、いい思い入れがないからだ。
「二人で抜け駆けとか、ずるいぜ!」
明るく元気で空気を読めない爽やかな声の主は、廊下の奥から現れた。
ピンピンはねた茶髪がトレードマークのクラスメイト、桜戸歩。
爽やかな声とは裏腹に、私たちの気分はどんどん重くなっていく。
「誰が抜け駆けだ、誰が」
隣にいた季砂が面倒そうに顔をしかめる。たぶん私も、同じような顔をしている。
気分が沈んでいくのは、目の前の彼が風紀委員会のブラックリストに書き込まれるほど問題行動を起こしまくるトラブルメーカーだからだ。出来ることなら、関わりたくない。
「抜け駆けじゃないなら、こんなところで何をしているんだよ?」
「風紀の巡回だ。お前こそ何をしている?」
「俺? 俺はただの散歩だ」
「ただの散歩でどうやったら服が破けるわけ?」
目を凝らして見るまでもなく、学ランの袖の部分がぱっくり裂けている。夕方教室で別れたときには破けてなかったはずだ。普通に散歩を楽しむだけの人間が、何をどう血迷ったら服を派手に破るような事態に遭遇するのか。
「え? あれ、本当だ。全然気づかなかったよ。困ったなぁ」
「お前、一体何をしたんだ?」
「何って、ちょっと散歩がてら、一戦を交えてきただけだ。別に、お前らの手を煩わせることは何もしてないぜ」
やはり何かやらかしてしまったらしい。
「一戦やったということは、被害者がいるわけね」
「派手にやっていないだろうな」
「だから今日は大丈夫なんだって。相手は逃げたし、物も壊していない!」
学内の風紀を正す役割をもっている者としては頭が痛くなるような発言だが、「それならいい」と納得できてしまうあたりに、日ごろの酷さが現れている。
「それより香世、制服濡れてるぜ? 怪我もしている」
「ああ、さっき雪の上で転んだから」
歩に指摘され、改めて制服を確認すると、確かに濡れて変色している。黒いセーラー服の上に黄土色のカーディガンを着ていたため、濡れているのが露骨に分かってしまうようだった。
「早く着替えないと風邪ひくぞ」
「でも、まだ風紀の巡回時間終わってないから寮に戻るのも……」
「巡回、まじめにやっていたか?」
「サボりの常習犯みたいに言わないで」
いつも風紀の巡回をサボっているわけではない。
(どうしよう。奏先生に相談したいから、このまま準備室に行こうか。それとも、保健室で着替えを借りてから行こうか)
悩んだ結果、私は――
【社会科準備室に行く】
【