【プロローグ scene0-1】

始まりの予感


 極寒の風が窓を叩く、そんな夜。
 夜とは言っても、時計は夕方の時間を示している――はずだが、空にはすでに月が浮かんでいる。赤い月。この地方では珍しくない、不気味な月だ。

(嫌な予感がする……ものすごく、嫌な予感)

 放課後の誰もいない教室。赤い月の光だけで満たされている、不気味な空間に私はいる。 嫌な予感がするのは、そのせいだろうか。

(……集中できない)

 途中まで読んでいた本を閉じて、近くの机の上に置く。

(何かが、来る気がする)

 息を殺して、入り口を睨む。気のせいであることを願いたいが、足音は徐々に近づいてきている。
 何も起こらないことを期待していたが――案の定、誰のものだか分からない足音は教室の前でピタリと止まり、トビラが乱暴に開かれた。
 廊下の光が差し込んできて、一瞬目が眩む。

「さっ、探しましたよ! きさらぎ、せんっ、ぱい!」

 教室に入ってきたのは、小柄な女子生徒だ。息を切らしているせいか、ツインテールの黒髪が肩の上で揺れている。

「助けて、ください! せんぱい……如月先輩! わ、私の、友だちが……食べられちゃう!」

 女子の風紀委員が私だけだからか、こういうことが稀にある。男子の風紀委員には見られたくないような事柄に巻き込まれた場合――必然的に、名指しで助けを求められるのだ。

(サボっていたのが運の尽きだったのかも)

 ポケットに突っ込んでいた風紀委員の腕章を引っ張りだして、腕につける。

「案内して」

 嫌な予感というのは、常々的中するものだ。

◆ ◆ ◆

「で……騙されたわけね」

 何が助けて、だ。
 鬼に連れ去られたという教室には、危害を加えそうな男二人以外誰もいない。つまり、肝心の被害者がどこにもいないのだ。

「ほんと、ついてない」

 救出のため教室のトビラを開けた途端に、後ろから突き飛ばされて今にいたる。
 顔面から倒れることはなかったが、態勢を崩して膝をついている。衝撃がそれなりにあって痛い。きっと痣になっているだろうことを想像するだけで憂鬱になる。

(と、今はそんなことどうでもいいか)

 現状確認。
 背後にあるトビラは、たぶん、支え棒か何かで開かないようにされているはずだ。ガタゴトと音がしたので、支え棒じゃないにしても、何かしら施錠はされている。脱出を試みる気にもならない。
 どうせ逃げ出すなら、前方に見える窓からの方が確実だ。
 しかし、ここは三階。死にはしないだろうが、軽々と飛び降りることができる高さでもない。

 そもそも、窓にたどり着くまでには、いかにも害を加えそうな二人の男を突破しなくてはならない。

 一人は長い黒髪を後ろに束ねた男子生徒で、顔に見覚えはない。だが赤い目を見る限り、彼は鬼なのだろう。
 もう一人の男子生徒――こっちには見覚えがある。見覚えとはいっても仲のいい知人というわけではなく、むしろ警戒心を高めなければならない危険人物。

「遅かったな」

 鬼灯遠万。この学園に在籍する生徒なら誰もが知っている、生徒取りまとめ役の存在。同時に鬼の中でも特に強い力を持った危険種だ。
 灰色の長い前髪が耳にかかっているせいで、顕になっているのは無機質な赤い目。まともに目を合わせるだけで、体がすくんでしまいそうになる。

「また風紀の仕事をサボっていたのか? 時間がかかってしまったのは、巡回ルートにいなかったからだろう」
「文句があるなら、あんたが直接来ればよかったじゃない」
「おや、この私に動け、というのか?」
「相変わらず嫌な性格」
「あなたに言われるとは心外だ」

 会話をしつつ、立ち上がる。足の痛みを気にしてはいられない。

「私に、何の用?」
「この期に及んでとぼけるか? やはり、あなたの方が私よりもずっと嫌な性格をしている」

 あの件か、と察しはついた。

「私が、何をとぼけているって?」

 しかし口には出さない。私は無実だし、後ろめたいことは何もない――が、残念なことにそんな主張が鬼の耳に届くとは思っていない。今私が考えなくてはならないのは、いかに無実を証明するかということよりも、どうやってここから逃げ出すかということだ。

(あの目、本気で私を殺す気ね)

 鬼灯の赤い目からは、冷酷な殺意しか感じない。口調や態度こそ冷静だが、心情はふつふつと怒りで煮えくり返っているのだろう。瞳は苛立ちを隠しきれていない。

(しっかりしなきゃ、殺される)

「そうやって知らぬフリをすれば、何もなかったことにできる。あなたは本気でそう思っているのか?」
「あんたに殺気を向けられる覚えがないもの」
「殺気を向けられている、という自覚はあるのか」
「自覚も何も、あんたの目、殺る気満々じゃない。言っておくけど、私は無実の罪で殺されてあげるほど、優しい人間じゃないわ」

 鬼灯の顔から、完全に笑みが消える。赤い月の光と合わさって、より冷酷度が増した気がする。
 足が震える。体全体が警告を発している。それでもここで、目をそむけるわけにはいかない。少しでも油断すれば、強い力で拘束され、首を噛まれてしまう。
 冷や汗が背中をつたって流れ落ちていく。

「最後までとぼけるつもりだろうが、風清を殺したのはあなただろう? あなたが、風清を殺した。これは疑いようもない事実だ」

 やっぱり、そのことだったか。

「事実じゃない。私は、本当に何も知らない」
「しかし風清が最後に会ったのは、おそらくあなただ」
「それだけで犯人扱いされるのは心外ね」
「証拠が何もないからこそ、憶測はいくらでもできるが……あなたほど容疑者にふさわしい人間はいない」

 木藤風清殺害事件。
 全寮制という、外部との繋がりが完全に遮断された学内で先日起こった事件の名前だ。 しかし殺害事件だと騒いでいるのは、目の前の鬼灯遠万をリーダーとした一派の鬼たちだけで、学園側は行方不明事件、もしくは脱走事件として認識している。

 事実、風清先輩が殺されたという物的証拠はどこにもない。

 風清先輩の死体が発見されたわけでもなく――ただ、ある日突然、姿を消したというだけだ。
 これが普通の人間ならまごうことなき行方不明事件になるのだが、風清先輩は鬼。絶命すれば、血の一滴も残さずに、体が塵となって消えていく、そういう種族だ。
 たとえ誰かが殺したとしても、衣服以外に痕跡は残らない。殺人であるという確固たる証拠がそろわない以上、法的に犯人を罰することもできない。鬼とはそういう存在。
 だからこそ、鬼灯のように自らの手で犯人を罰しようと考える鬼がいる。

「あなたは、風清がずいぶん執着していた。迷惑だっただろう?」
「そりゃあ迷惑だったわよ。迷惑だったけど、殺したいほど迷惑ってわけじゃなかった」
「口ではいくらでも偽善じみたことを言えるものだ」
「……最初から、私の話を聞く気がないでしょう」
「当然だ」

 無実であるという事実は、鬼にとって重要ではない。
 重要なのは、鬼を殺せば殺した犯人も同じように殺されるということを、周囲に知らしめることだ。
 鬼を殺しても何の罪にも問われない、そう思うなよという、彼らなりの見せしめの意味を込めて、私は今、殺されようとしている。

(チャンスは一度きり。後ろに控えている生徒が気になるけど、今は自分を信じるしかない)

「風清は私が気に入っていた部下の一人だったからな。今は気が立っている。誰でもいいから、殺したい気分だ」
「本当、嫌な性格」

 ふっと、鬼灯が笑って……。
 姿が消えたと思ったら、すぐそこに鬼灯が迫っていた。
 目に見えぬ速さで腕が伸びてくるが、後ろに飛んでなんとか避ける。

(私だって、似非風紀委員ってわけじゃない!)

 鬼灯が次の攻撃を仕掛けてくる前に、腕に仕込んでいた懐中電灯を手にとった。
 懐中電灯――と名前だけ聞けば間抜けなように聞こえるが、これは軍や法執行機関が使うような強力なものだ。
 鬼灯が私に目を向けた、その隙をついて懐中電灯のスイッチを押し、無機質な赤い目に光を浴びせる。

「――なっ!」

 普通の懐中電灯よりも強力な光だ。しばらくは目が眩んで動けないだろう。
 鬼灯が怯んだ隙に、窓に向かって走りだす。
 もちろん、鬼灯の側に控えていた男子生徒を忘れたわけではない。
 彼は鬼灯が動けなくなると同時に、小型ナイフを構えダーツの矢のように放ってきた。
 一つは頬をかすめたが、もうひとつは上手くかわす。
 さらにナイフを投げようとする男子生徒の目にも光を当てたが、避けられてしまった。
 態勢を崩したまま、男子生徒は的確にナイフを放つ。

(こいつ、鬼灯より戦闘慣れしてる――っ)

 かくなる上は、強硬手段だ。
 私の武器は、光だけではない。むしろ、光から生じる影の方が武器になる。

「……っ!」

 イメージは犬だ。警察犬のような、獰猛で凛々しい黒犬。鋭い犬歯を持っていて、人を襲えるほど大きな犬!
 イメージをすればするほど私の影が犬の形に変形し、浮かび上がってくる。
 幻影ではない。影の物質化は、私が持っている能力だ。
 影から生まれた黒犬が、しなやかな足で床を蹴る。
 いくら戦闘慣れした鬼とはいえ、獣のスピードにはついていけなかったようだ。
 黒犬が鬼の足に噛み付いたことによって、攻撃の嵐がやんだ。

(チャンスは今しかない!)

 鬼が怯んでいる間に素早く窓に駆け寄って、全開にした。
 空からは雪が降っている。突然の寒風に身が震えるが、ためらっている時間はない。

「待て、如月!」

 待てと言われて誰が待つものか。
 背後から聞こえた鬼灯の声を無視して、窓枠から体を投げ出した。
 三階の高さだが、地面には雪が深く積もっているから死ぬことはないだろう。
 冷たい風が傷口にしみる。

(ああ、せめて捻挫で済みますように)