「襲われた?」
「そう、襲われたんです。鬼灯本人に」
鬼灯の名前を出した途端、奏先生の表情が険しくなった。
準備室に戻ってきた奏先生は、窓辺に腰をかけて話を聞いてくれている。ストーブの前にいる私は、先生を見上げる位置にいるので、段々と首が痛くなってきた。季砂は壁に背を預け、歩はパイプ椅子に座っている。
「やっぱり、狙われましたか」
風清先輩が行方不明になったその日、最後に会ったのは私だという証言があったらしい。
(誰の証言かは分からないんだけど、そのことを教えてくれたのは奏先生だった)
だから鬼灯に疑われることを予想していたのだろう。
「女の子の顔に傷をつけるとは、呆れましたね」
「傷は鬼灯じゃなくて、鬼灯の側近みたいな奴にやられたんです」
季砂に手渡されたお茶を飲みながら、数十分前のことを思い返す。
長い黒髪の、あの男。鬼灯よりも容赦がなかった。
(いや、鬼灯も同じか)
鬼灯は運よく、怯ませることができただけだ。
今さらだが、生きて脱出できたことが奇跡のように思えてきた。
「それ、風清の弟だぜ、たぶん」
「弟?」
それまで珍しく黙ってお茶を飲んでいた歩が口を挟んできた。風清先輩に弟がいたとは初耳だ。
「木藤颯太。確か、鬼灯の懐刀だったよな?」
「いや、知らない」
私だけでなく季砂も把握していない人物ということは、少なくとも、風紀委員会の管轄になるような問題児ではない。
「そうですね……端的に言うと、鬼灯くんの影の護衛です」
歩の説明に、奏先生が補足する。
「護衛って……」
「この学園は物騒ですからね。鬼灯くんほどの立場になると、護衛がつくものなんです」
それは知っている。鬼灯は鬼の始祖に近い血を継いだ家系の出身であり、鬼の中でも特に身分が高い。そういった鬼には、万が一のときのために護衛がついている。
しかしあれは――護衛だという木藤颯太は、まるで暗殺者のようだった。鬼灯を守ることよりも、私を殺すことを優先していたように思う。あらかじめ鬼灯に言いつけられていたのか、それとも、鬼灯と同等の憎しみを私に抱いていたのか。
「……弟なら、私を殺し損ねたこと、さぞ悔しがっているでしょうね」
「でも、あなたは木藤くんを殺していない。そうでしょう?」
奏先生に改めて問われ、静かに頷く。
「無実を証明することもできませんけど」
(それどころか、風清先輩が行方不明になる前日、私は先輩に会っている。会っているはずなんだけど……)
急にチクチクと針をさすような痛みが頭を巡り出した。深く考えようとするたびに、頭の中に靄がかかっていって、真っ白になっていく。
「如月さん、どうしました?」
「……なんでもないです」
表情に出ていたか、と気を引き締める。
奏先生は怪訝そうな顔をしながらも、言葉を続けた。
「しばらくは一人にならないほうがいいですね。あなたの寮部屋に、誰か移ってくるよう手配しましょうか?」
「……いや、一人のままでいいです」
他人を物騒な争いごとに巻き込みたくない。
「そうですか。……まあ、いくら鬼灯くんとは言え寝込みを襲う、なんてことはないと思います。日中は常に誰かといること。俺も目を光らせておくので、あとは自衛してください」
(結局のところ、自分の身を守れるのは自分だけか)
誰かが助けてくれるわけではない。
鬼灯の無機質な赤い目を思いだし、体が震えそうになるが、拳を強く握って堪える。
「とはいえ、俺もできることはします。如月さんに、これを渡しておきますね」
奏先生が事務机の引き出しをあけ、中から取り出したのは黒い端末機だった。名刺サイズの薄い機械には、風紀委員会の文字が小さく刻みこまれている。
「これって、通信機?」
携帯電話の所持が禁止されている学内において、連絡を取り合うために必用な通信端末だ。
「俺は常に通信機を持っていますし、橘くんにも渡しておきます。それから、念のため、桜戸くんにも」
通信機を勝手に貸し出していいのだろうかと思う反面、何もないよりは心強い。校則で禁止されているのだとしても、好意に甘えて持っておきたい。
季砂は渋々、歩は嬉々として端末を受け取った。
「俺は、あまり巻き込まれたくないんだが」
季砂は心底嫌そうだ。彼の性格上、当然とも言える反応だろう。
「これは風紀委員の仕事です。これからは見回りも二人で行ってください」
「なんで俺が」
「じゃあ俺が香世の見回りについていくぜ!」
それだけは勘弁してほしい。
「来ないでよ。あんた、邪魔しかしないから」
「そもそも、お前は風紀委員じゃないだろうが」
「そうよ、むしろ敵!」
「えぇー? 二人とも酷いな。親友だろ?」
「勝手に親友にするな」
「友達になった覚えもないんだけど」
友人ではなく、付きまとってくるだけの悪質なストーカーだ。ここが閉鎖的な学園でなければ、すぐにでも警察に行って被害届を出してやるのに、といつも思っている。
(不毛な)言い争いを続けていると、それを遮るかのように、激しく準備室のトビラが開いた。
「おい、奏! 貴様どういう了見だ!」
怒号とともに現れたのは、怖い形相の男だった。眉間にシワが寄って、般若のような顔になっている。子どもが見たらすぐにでも泣いて逃げ出すだろう。
「寒凪、びっくりするだろ。あと、トビラが壊れる」
驚きのあまり声が出ない私たちとは裏腹に、まるで最初から怒り狂った男――寒凪先生が来ることを予期していたかのように、奏先生は平然と迎え入れた。
「ガキども、どけ。今からそいつを始末する」
教壇に立つ人間の台詞とは思えないほど声に凄みがある。内容も物騒だ。
「……何をやらかした?」
次第に状況を把握した季砂が尋ねる。寒凪先生ではなく奏先生に、だ。
「俺はなにもやらかしてないですよ、たぶん」
「貴様、人に仕事を押し付けておいて、どの口が無罪をほざくか!」
そういうことか、と私も納得した。
奏先生と寒凪先生は犬猿の仲で有名な社会科教師ペアだ。こうした諍いごとに遭遇するのも、実は始めてではない。
(でも、毎回般若のような形相と迫力に驚くのよね)
「ああ、テスト作りのこと? 俺よりも寒凪の方が得意じゃないか」
「次は貴様が作成する番だろう。それを、人に押し付けるとは言語道断!」
「心が狭いな、寒凪は」
いつものことだが、雲行きが怪しくなってきた。
「ガキども、早く出て行け」
寒凪先生が近くに立て掛けてあった日本刀に手を伸ばす。社会科の教材に使われるのであろうそれは、鞘から抜くと本物の刀のように見える。
(見える、じゃなくて、あれ本物!?)
抜刀されるところは今日はじめて見たが、本物だとは思ってなかった。斬られると痛そうだ……ではなく、間違いなく死ねそうだ。
「いつものことなのに、よくやるよなー」
「全くだ。呆れてものも言えない」
「こんな教師ばかりだから、生徒も物騒になるのよ!」
巻き込み事故はごめんだ。
残っていたお茶を喉に流し込み、マグカップを流し場に置く。
その間に奏先生はスーツの裏ポケットから警棒を抜き出していた。話し合いで解決させる気も、妥協する気もないらしい。
今にも殴りあい(斬り合い?)が始まりそうな雰囲気だったので、椅子の背もたれにかけていたカーディガを手に取り、準備室の入り口へと駆けていく。季砂と歩はすでに退避していた。
「あ! 二人とも、明日の代表者会議、忘れないでください――ねっ!」
その言葉を皮切りに、金属と金属とがぶつかり合う不快な音が耳をつんざいた。
私は急いで、準備室のトビラを閉める。
(あれは、散らかるだろうなぁ。誰が掃除するんだか)
「そういえば、明日だったか」
「え? 何が?」
「いや、代表者会議」
最後の奏先生の言葉は、季砂の耳にも届いていたらしい。
代表者会議は月に一度開かれる、学園の中枢を担う生徒たちによる会議のことだ。
季砂は副風紀委員長として、私は治安部の記録係として参加することになる。
(今、私が代表者会議に出席すれば……)
鬼灯は生徒代表で、代表者会議の核たる存在だ。おおやけの場で襲いかかってくることはないと思うが、鬼灯のねちっこい視線は受けることになるかもしれない。
正直、不安がないと言えば嘘になる。しかし、今の現状を正確に把握するためには、仮病を使わず参加した方がいい。
「……面倒ね」
「全くだ」
季砂の背後にある窓には、不気味な色をした赤い月が浮かんでいた。