(今ならまだ、季砂に追いつけるかも)
廊下に季砂の姿はない。私よりも先に出ていったとはいえ、時間差はそんなになかったはずだ。
(ということは、二階に行ったのかも)
古い校舎の二階には図書室がある。
本好きの季砂は、ことあるごとに本を借りて帰る習慣があった。
階段をのぼって二階に行くと、予想通り季砂の後ろ姿がある。
図書室は二階の奥、つまり会議室の上に位置するのだが、季砂はそこに向かって歩いているようだった。
走って駆け寄ろうか思ったが、廊下には他の生徒の姿もある。悪目立ちすることはしたくないので、なるべく目立たないよう普通に歩く。
(それにしても、考えすぎだとは思うけど、ちょっと恐い)
横ですれ違った男子生徒、空き部屋で笑いあう女子生徒、そのすべてが鬼灯の手下で、実は私を監視している――なんてことはないと思うが、誰が敵か分からない状況は、思っていたよりも緊張する。
(早く、季砂のところに行こうっ)
◆ ◆ ◆
一階にある薄気味悪い会議室と同様、設立当時からあるこの第一図書室には文学系の蔵書がたくさん揃っている。
新しい校舎に行けば第二図書室があって、そこには主に理系の蔵書が収められているのだが、季砂は文学の方に興味があるらしく、こっちの図書室を利用することが多い。
図書室には背丈よりも高い本棚が数列並んでいて、視界が遮られる構造になっている。そのため、スペースは広いのだろうが感覚的には狭く感じる。
図書室に入って行った季砂が真っ先に向かったのは、一番人目につきにくい、隅っこの方にある四人掛けの席だった。
荷物を置いて、本を探しに立ち上がるかと思ったが、その気配はない。
(どうしよう……とりあえず、様子を見よう)
季砂が座った席に近い棚に身を隠し、目の前にあった本を一冊抜き取った。
(あれ、日本語じゃなくて全文英語なんだけど……)
まあいい。本を読むふりをして、あいた隙間から季砂の様子をうかがう。
季砂は会議で配布された資料に目を落としているのだが、気に入らないことでもあったのか、遠くから見ていてもわかるくらい表情が険しい。
(ん? イライラしてる?)
機嫌が悪いときの季砂に声をかける勇気はない。どこかに行けと一蹴されるだけだ。
用事がないのであれば、なおのことためらってしまう。
(……なにか、聞き漏らしたことにしようかな。藤原先輩の話とか)
実際に聞いていなかったので嘘ではない。
隙間から季砂を観察しつつ、どうやって声をかけようか悩んでいる間に、季砂がテーブルの上に資料を投げ捨て、静かに立ち上がった。本でも探しに行くのだろうか。……と、呑気なことを考えていたが、彼は迷うことなくこっちに近づいてくる。
(えっ……やばっ。隠れるとこないし)
目が合ったような気がして慌てて本をしまうが、遅かった。
「おい、如月。俺に用事があるなら言ってくれないか」
季砂は私に気づいていたらしい。
隣に立った季砂に見下され、いたたまれない気持ちになる。
「……バレてましたか」
「ばれないと思ったか?」
「いや、でも、季砂に用事があるとは言ってないし」
「じゃあ、お前はフランス語の本にでも用事があったのか?」
「フランス語……」
季砂に言われて本の背表紙を確認すると、確かに英語とは違うアルファベットの羅列が並んでいる。
ここは、フランス文学のコーナーだったらしい。しかも、翻訳されていない本ばっかりだ。当然読めるわけがないし、そもそもそれ以前に――
(うわっ、英語とフランス語を間違えるとか……)
季砂にはばれていないだろうが、一人恥ずかしくなる。
「……なに、赤面してんだよ」
季砂が低い声でぼそっと呟くが、聞こえないふりをした。
「フランス語の、勉強でもしようかと……」
(ああ、なんて心にもないことを)
「お前は、フランス語の前に、英語を勉強した方がいいんじゃないのか?」
「英語は飽きるほど勉強してるわよ」
「飽きるほど勉強して、あの点数か」
「あの点数って……なんで私のテストの結果知ってるの!?」
思わず叫んでしまうと、季砂が人差し指で私の額を軽く小突いてきた。
「うるさい。声が大きい」
「そりゃ、大きくもなるわよ」
「そんなに驚くようなことか? 後ろの席から見えてたが」
別に見られても恥ずかしい点数ではないはずだが、季砂に比べると……鼻で笑われても仕方ない点数だ。
(だからって、デリカシーがなさすぎる!)
「……」
「まあいい。フランス語の勉強が目的なら、俺に用事はないんだな」
季砂は自分に用事があるのだと確信したのだろう。悪質な笑みを浮かべている。
なんだか悔しいが、言葉を重ねても墓穴を掘るだけだ。
「……報告書作りたいんだけど、ところどころ聞き漏らしているところがあるかもしれないから、季砂に確認してもらおうかと思って」
咄嗟に思い浮かんだ言い訳は、我ながら苦しいと思う。案の定、季砂の反応も鈍い。
「お前な、なんのための書記だと思ってる? 自分の仕事もまっとうできないのか?」
「いいじゃん、別に。まだ図書室にいるんでしょ? その場で確認しながらやった方が、色々と手間が省けていいわ」
もう、こうなれば強行手段だ。
季砂の横を通って、隅っこの席に荷物を置く。
季砂が逃げてしまえばそれまでだが、
「……まあ、別にいいけど」
彼がそこまで非情な人間ではないことを、私は知っている。
◆ ◆ ◆
「……如月」
「ん?」
ペンを動かしすぎて指が痛くなってきたところで、季砂が声をかけてきた。
季砂は向かいの席で本を読んでいたはずだが、今は顔をあげている。
私もペンは持ったまま、季砂の目を見返した。
「お前、犯人を探そうとは思わないのか?」
「犯人?」
季砂は怖いくらい真剣な顔で、唐突にそんなことを言い出した。なんのことかは察しがつく。
「殺害にしろ失踪にしろ、前例がないとは言わないが、これまでになかった頻度で起こっているだろ」
「まあ、そうね」
「ということはつまり、誰かの意図的なものである可能性が高いと思わないか? 首謀者を見つけ出せば、鬼灯も考えを改めざるを得ない。お前が狙われることもなくなる」
「そりゃ、首謀者みたいな人が本当にいるんだったら、そうかもしれないけど……」
季砂は季砂なりに、巻き込むなとか言いつつ心配してくれていたのかもしれない。
「……仮に首謀者がいるのだとしても、犯人探しはしないわ。私が探偵の真似事をやって、簡単に見つけられるくらいの人が犯人なら、きっと他の誰かが見つけているはずでしょう。鬼灯だって殺せないと分かったら、そのうち諦めるわよ」
「殺せないと理解するほど、何度も危険と向き合うつもりか?」
今のままだと、殺されてしまう可能性の方が高いだろう。口では簡単に言えても、逃げ続けることはそう簡単なことではない。でも、
「大丈夫。季砂がいるから」
季砂の近くにいる限りは、安全だと信じている。
「……何度も言っていると思うが、俺は面倒ごとに関与はしないし、したくもない。もちろん、助けるつもりもない」
「知ってる。別に助けてとは言ってないでしょ」
季砂は誰かのために画策してくれるような人ではないし、私もそれを望んでいるわけではない。
「だからといって、避けたりするつもりもないわ。巻き込む気ならある」
「矛盾してないか?」
「……季砂の隣が、一番安心できるの。助けてとは言わないけど、できる限り近くにいさせてほしい」
季砂は強い。だから鬼灯の策略に巻き込まれたとしても、一緒に死ぬことはないだろう。
鬼灯だって季砂が簡単な相手ではないことを知っている。季砂と一緒にいる限りは、極力手を出してこないはずだ。
そういった意味で、季砂の近くは私にとっての安全地帯。唯一、心身ともに休むことができる場所だ。
季砂は一瞬、呆気にとられたような顔をしていたが、すぐに「バカじゃないのか」という顔つきになった。
「俺より歩の方が心強いだろう」
「あれを心強い味方というほど、私も落ちぶれてない」
「命をかけても守ってくれると思う。いや、あいつのことだ。鬼灯そのものを殺りかねない」
「頭が痛くなるからやめて」
歩は誰かに殺されるくらいなら俺が殺してやるよ、と笑顔で言ってくるような奴だ。襲われたら守ってくれるのも事実だが、害のある存在であることもまた事実。心強い味方……とは、口が裂けても言えない。
「俺には理解できない行動原理だ」
「私にも理解不能よ」
理解できてしまったら、それは危険信号だ。
「……本当に、理解できない」
季砂が低い声で呟き、それからまた本に没頭し始めた。会話は終わりということだろう。
私も再びペンに力を込め、報告書に文字を書き込んでいく。
ふと、縦に細長い窓に目をやると、今日の空にも赤い月が浮かんでいた。
いつ見ても不気味な月だ。鬼の城にふさわしい血の色の月。
(でも、今日はそんなに嫌な感じじゃない)
近くに季砂がいるからだろうか。赤い月を見ても、不気味だとは思うがそれ以上のものはない。
心臓は正常に脈を打っている。
鬼灯に目をつけられているとは思えないほど穏やかな時間だ。
(このままずっと、季砂が近くにいてくれたらいいのに)
そう、願わずにはいられなかった。