【短編小説】

炭 酸 注 意 報


【炭酸はプルタブを押し上げるまでが勝負】

 放課後の部室に、僕一人。
 持参のパソコンで画像整理をしていると、ノックもなしにトビラが開いた。
 不意打ちだったが、今、やましいことは何もしていないので問題ない。
 部室に入ってきたのは缶を抱えた彩葉さん。

「優希、買ってきたよ」
「ありがとうございます」

 数分前、公平なジャンケンで負けた彩葉さんは近くの自動販売機でジュースを買ってきた。
 なんでもいいと言ったら、炭酸飲料を買ってくるあたりが怪しい。
 目の前に缶を置かれてもすぐに飲む気はしない。

「……飲まないの?」
「飲みますよ」

 炭酸飲料が嫌いなわけじゃない。むしろ好きだ。大好きだ。ただ、大好きだからこそ敗北者であり渋々飲み物を買いに行かされた彩葉さんが炭酸飲料を選んでくるはずがない。
 というのも、学校の自動販売機にはえげつない飲み物が(なぜか)数多く存在する。それを差し置いて普通の炭酸を買ってくるなど、彼女の性格的にまず考えられない。

 彩葉さんの様子をさり気なくうかがう。
 案の定何気ない風を装って早く開けないかと目を輝かせている。
 間違いない。こいつ、缶を振っている。
 缶を振っただけでこの僕に嫌がらせができると本気で思っているのだとしたら、ずいぶん見くびられたものだ。

 そもそも缶を振ると液体が噴き出すのは『私をここから出して!』といった感じでムリヤリ液体の中に閉じ込められている炭酸ガスが、振動によって液体から離れ気体になってしまい、それが缶の中に充満するためである。
 つまり、噴き出さないようにするためには気体となった炭酸ガスを再び液体の中に閉じ込めてしまえばいいわけだ。
 その方法として僕が知っているのは、缶を横に倒し転がすこと。こうすることによって缶の表面に張り付いているだろう気体が液体の中に戻ってくる。

「優希、早く飲まないとぬるくなっちゃうよ」
「それもそうですね」

 彩葉さんの輝かしい瞳に見守られつつ、僕は缶のプルタブに手をかける。
 ――ぷしゅ、と音がした後、溢れるほどではないが飲み口を濡らしてしまうほどの炭酸が噴きだした。
 溢れるほどではないが指先は濡れてしまう、その程度。

「……地味だ」
「……地味ですね」

 地味すぎてリアクションがとりづらい。


【普通、炭酸は凶器にはなりません】

「炭酸ってさ、本当に凶器になるのかな?」
「凶器といいますと?」

 わずかにこぼれた液体をタオルで拭っていると、彩葉さんが怪訝そうに尋ねてきた。

「ほら、いつだったか忘れたけど、テレビのコマーシャルで炭酸振って島一つ吹き飛ばすやつあったよね」
「ああ、ありましたね」

 僕が今まさに飲もうとしている炭酸飲料のコマーシャルだ。
 振っただけで島一つ吹き飛ばせるのであれば、炭酸は軍事活用され、一般市民の手にわたらない危険物資に認定されるはずだ。

「あれが見たくて思いっきり振ったのに」
「……もっと振らないとダメだったんじゃないですか」
「えー、十分間は頑張ったのに」

 なんて無駄な労力。

「十分じゃ全然足りません。僕を炭酸で殺そうとするなら、最低でも二時間は振り続けないと」
「え? 二時間振ったら凶器になるの?」
「ぜひ試してみてください」

 そして二時間振り続けて腕を痛めてしまえばいい。


【倍返しの法則】

 炭酸は振っても飲めなくなるわけじゃないが――僕は一口飲んで大袈裟にため息をついてみせた。

「ダメですね、これは。炭酸が抜けています。どれだけ振ったんですかあなたは」
「あ、やっぱり」

 炭酸を振るとガスが抜けることは知っているらしい。つまり悪意があったわけだ。

「そうだ。炭酸嫌いのあなたもこれなら飲めるんじゃないですか?」
「いやいや、別に飲めなくてもいいし、飲みたくないし」
「いやいやいや、責任はとってもらわないと」
「責任って……」
「炭酸の抜けたジュースはただのジュースですからね。こんなの、僕には飲めませんよ」

 炭酸は劇物だと常日頃から言い張る彩葉さん。その表情はひきつっていて、僕はさらにほくそ笑む。

「普通のジュースだって優希飲めるじゃん!」
「炭酸の気分だったのに、あなたのせいで台無しになったんです。僕は紅茶が飲みたくなりました。取り替えっこしましょう。――そもそも、炭酸を振った彩葉さんに非があるわけですから、まさか僕の言い分が聞けない、なんてことはないですよね?」

 紅茶は彩葉さんが自分用に買ってきた飲み物だ。
 取り立てて紅茶の気分というわけでもないが、彩葉さんの明らかに「しまった」という顔を眺めるのは面白いので我慢する。

「炭酸は飲めないよ」
「炭酸だったら僕が飲んでます。これ、ただのジュースになってるから嫌なんだって」
「……本当に炭酸、抜けてる?」
「あなたに返品しようと思う程度には抜けてます」

 彩葉さんが渋々缶に手を伸ばし、匂いをかぎ出す。

「…………本当の本当?」
「僕は紅茶より炭酸が好きですが?」

 そして炭酸よりも人の嫌がる顔を見るのが好きだ。
 彩葉さんは意を決して缶を傾け――当然だが咳き込んだ。

「もっとも、密閉状態でいくら炭酸を振ろうがガスが漏れるわけではないので、炭酸は抜けないんですけどね」


【結局悪いのは】

「今日のところはこれくらいで許してあげますよ。僕に罠を仕掛けておいて、この程度の仕打ちで済んだんです。よかったですね」
「……優希」
「なんですか?」

 彩葉さんは珍しく項垂れたまま顔をあげようとしない。
 常時であれば「またパシリ役引き受けてあげるね」と満面の笑みでいいそうなものを。

「…………ふらふらする」

 返ってきた言葉は

「………………はい?」

 想定外すぎた。

「なんか、ぼーってする。眠い」

 ようやく顔を上げた彩葉さんは頬が真っ赤で、瞳も潤んでいて、本当にぼーっとしていた。
 すごい豹変ぶりだ。言葉を失ってしまうのも無理はない。
 潤んだ瞳に見つめられると、なんだかむしょうに罪悪感がこみ上げてくる。それが狙いかとも思ったが、彼女は本気で

「酔ったんですか? え、炭酸で、しかもあの量で?」

 酔ったらしい。本当に酔ったらしい。炭酸で酔う人がいると聞いたことはあったが、本当にいるとは思わなかった。しかもこんな身近に、たった一口の量で。

「うぅ……」

 彩葉さんが幽霊のように椅子から立ち上がり、

「いや、立ち上がらない方が――」

 と言いかけたところでバタンと盛大な音を立てて床に倒れた。
 こう、悪意とは全く無関係のところで倒れられると頬が引きつってしまう。しかもこれ、端から見れば僕のせいだし。いや端から見なくても僕のせいなのか?

「なんか、全て僕が悪いみたいな、そういう倒れ方やめてくれませんかね」

 返事はない。ただの屍のようだ。
 静かな部室に、倒れた被害者と立ち尽くす加害者。

「……どうしろと?」

 呟いても、やっぱり返事は返ってこなかった。

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