【中編小説】

黄 昏 の 恋 話


 (――恋の味が知りたい。そんな年頃だったけど、そもそも恋とは何なのか、それすらも知らない私は代わり映えのない日々を送っていた。平和な日常、物足りない日々。
 そんな日々を淡々と過ごすのは嫌だったから、変化を求めて旅をすることにした。目的地は恋の味を教えてくれるという秘境の地。噂話だから本当にそんなところがあるのかは分からない。けれど恋を渇望していた私に、探さないという選択肢はなかった)

 黄昏の刻。
 温かな光が降り注ぐ森の中、二人の少年少女が歩いている。少年は道なき道を迷うことなく進んでいき、少女はその頼もしい背中を追いかける。舗装されていない獣道ではあるが、草は短く歩きやすい。
 黙々と歩き続けること数分、急に視界が開けて強い光が飛び込んできた。上空から森を見下ろすとぽっかり穴が開いているだろうその場所には、白い花が星のように散らばっていた。

(ある日、森の奥に迷い込んだ私はたくましい背中を見つけた)

 ヴェールのような光の中。春風に乗って花が散る。まるで気泡のようだ。

「どうだ、すごいだろう?」

 白い景色の中、息を呑んで花を見つめる少女に自慢げに声をかける。

「ええ。こんなところ、知らなかったです」
「誰もが知っていたら、それは秘密の場所とは言わないよ」

 そう、森の中に沈んでいるここは秘密の場所だ。二人以外の人はいない。風が吹くと、無数の花が笑いあう。ただその音しかない。

(彼は疲れているようだった。真新しい切り株に腰を掛け、黄昏色の空をぼんやりと眺めていた)

「とりあえず、森を歩くのは疲れただろう? あそこに座ろうか」

 あそこ、と言って少年が指をさしたのは花に埋もれた大きな切り株だった。長年の劣化によって亀裂が入り、色もすっかり変色してしまっている森の椅子。
 二人は老いた切り株に腰を掛け、体を休めることにした。

 雲は時に流され、白い花の甘く艶やかな香りが満ちていく。少年は足元に咲く白い花を指で弾くだけで何もしようとしない。花の頭突きが返ってきてはまた弾く。その様子を横目で見ていた少女の瞳は険しくも妖しい色を帯びている。鼓動は高鳴る一方で、沈黙は一向に破れない。
 少女は何度か口を開いては閉じ、また開いて、ようやく言葉を紡ぎだす。

(「ここで、何をしているのですか?」私は勇気を振り絞って声を出した。思いのほか声が掠れていた)

「あの、どうしてこんなところに私を誘ったのですか?」
「こんなところか。気に入らなかったかな」
「いえ、そうじゃないんです。ここはすごく綺麗な場所で、素敵だと思います」
「そうだろう。ここは昔からずっとある場所なんだ」
「昔って?」
「七十年ほど前から。いや、それよりももっと前かもしれない」
「どうしてそんなに前からあるって分かるんですか?」

 資料が残っているのなら、それは秘密の場所とは言わない。少女の怪訝そうな顔を見た少年は穏やかに笑った。

(「何をしていると言われても困るんだけど……迷ったんだ。迷ってここに来た」たくましい背中が振り向き視線が重なる。私と同じ歳くらいの青年だった。彼の顔をみた瞬間に鼓動が大きく跳ねた)

「祖母が教えてくれたんだ。何度も話を聞かせてくれた」
「ここのことを?」
「そう。祖母にとってここは特別な場所だったんだ」
「特別な場所、ですか」
「君はこの花がなんだか分かるかい?」

 花の形だけを見るとコスモスやガーベラに似ているが、あくまで似ているだけであって見たことはない。少女が首を横に振ると、少年は風で乱れた髪を耳にかけながら言葉をつなげた。

「一言で、恋の花だよ」
「……恋の、花?」

 花の名前、ではなくロマンチックな単語が出てきたことに唖然とする。どんな言葉を返せばいいのか分からず、少女は単語を反芻するので精一杯だった。

(「迷子なら案内しましょうか?」甘い香りが肺腑の奥まで入り込み、奇妙なほど胸の内側が暴れだす)

 戸惑う少女に少年は苦い笑みをこぼす。

(「それは助かるけど、もう少しだけここで休んで帰りたいな」青年は微笑み、それから私を近くへと呼んだ)

「少し話をしようか。俺が知っている、この花の話を」

(思い返せば、この地に足を踏み入れ彼と出会った瞬間から日常に変化は訪れていたのかもしれない。私が求めていたもの。日常を変えてくれるもの。私は無意識のうちに歩き出していた。彼の声と温かそうな手に誘われて――――)



 切り株に座った青年は柔和な顔立ちをしていた。髪の色も瞳の色も優しい色で、降り注ぐ夕日によって温かみを帯びていた。つい触れてしまいたくなるような、そんな髪。けれど先に触れたのは私ではなく彼だった。
 大きな手のひらに片頬が包まれる。頬を通して伝わる体温につられて、どんどん顔が熱くなっていく。突然のことだったから恥ずかしくなって顔をそむけたけど、彼の手は逃げることを許さなかった。視線がぶつかり心臓がさらにうるさくなった。なんだか世界がふわふわしている。奇妙な感覚。

「初めて会う人だ」

 熱っぽい瞳の奥に私が見える。
 どうしてだろう。彼は知らない人だ。それなのに胸がドキドキしている。頬に触れられても嫌な気はしない。それどころかもっと触れてほしいとさえ思った。こんなのはおかしい。分かっていても体が動かない。

「私も初めて……です」

 私の知らない花が揺れている、知らない香りに満ちている。ここだけ日常から切り離された特別な空間みたいだと朧気に思った。

「そうか。やっぱり初めて会う人か」
「初めてのはずです」

 もしかしたら彼も戸惑っているのかもしれない。瞳の奥が揺らいでいるように見えたけど……それでも、彼は頬をなでることをやめない。男の人の手のひらがこんなにも大きいこととか、体温が高いこととか、初めて知る感覚に私も戸惑っている。

「こうされるのは、嫌?」
「……不思議と嫌な気にならないんです。初めて会う人なのに」

 やがて頬に伸びていた手が首筋に降りてきた。くすぐったくてつい首をすくめてしまうけど、彼はやめてくれなかった。

「変だな。なんだかいつもの俺じゃないみたいだ」
「私もです。あなたも私も、まるで酔っているみたい」

 アルコールに酔うと体の奥が疼くような、頭の中が真っ白になっていくような、そんな感覚になるのだろうか。お酒を飲んだことがないから分からないけど、いつもの私と違うことだけは確かだった。

「そうだね。かもしれないじゃなくて、実際に酔っているよ」
「どうして酔ってしまったのでしょう」
「それは分からないな」

 首筋を撫でていた指がさらに降りてきて、手首を掴まれた。そしてそのまま優しく引き寄せられて、気づいたらたくましい胸の中に落ちていた。彼は切り株から立ち上がり、私の体をがっしりとした腕で受け止める。

 足で蹴られた花が飛び跳ねる。甘い香りに頭が痺れてくる。
 ここはなんてとろけた世界なのだろう。アルコール漬けの砂糖の中に体を浸しているような気分だ。現実とは思えない世界に二人きり。意識すればするほど体が熱くなっていく。

「少しだけ、こうしていてもいいかな? こうしたい気分なんだ」
「どんな気分なんですか、それは」

 少しおかしくなって笑った。つられて彼も弱ったように笑い返した。
 どんな気分かだなんて、たぶん私も彼も答えられない。ふわふわしていて、頭が正常に機能していないからだ。

「不思議ですね。たぶん周りから見れば異様な光景ですよ」
「そうかもしれないな。でも、ここでは気にする必要はなさそうだ」
「そうですね。誰もいない……」

 もしかしたら、これが恋なのかもしれないと不意に思った。だって今、私は抱きしめられている。普通異性とこんなことはしない。ましてや相手は初対面の男だ。あまりにも非常識的すぎる。だけど恋は盲目という言葉があるくらいだ。恋に落ちて常識が見えなくなってしまったと考えると腑に落ちる。
 とにかく私は今、恋をしている。きっとそうなんだと思っていた。

 終わりを告げるチャイムが甘ったるい空気を揺るがした。聞き慣れているから嫌でも耳に入ってしまう。この音を聞くと甘い夢も覚めてしまう心地がする。実際終わりの合図なのだからこの表現はあながち間違っていない。

「私、そろそろ帰らないと」
「俺もだ。サボっていたことがバレると面倒だからな」

 サボり場所を探して、こんなところにまで迷い込んで来てしまったらしい。私も似たようなものだから責めることはできない。

「案内します」
「ありがとう、助かるよ」

 二人で歩く森の道。道無き道を歩くのだから、どうしても歩みは遅くなる。落ちている小枝や木の根っ子に足を絡み取られそうになるたびに、青年が手をひいてくれた。
 花畑が遠ざかっていくにつれて、心臓は落ち着きを取り戻していた。頭が冷静になってくると、私はどうして見知らぬ青年に抱きついてしまったのかが分からなくなる。  道を開拓してくれる彼の背中を眺める。時折振り返って重なる視線はすでに熱をもっていなかった。
 小さな森を抜けて石畳の道に出る。

「それじゃあ、俺はこっちだから」
「ここからは大丈夫ですか?」
「さすがに、ね。案内ありがとう」
「どういたしまして」

 お互いに正反対の道を進んでいく。石畳のいつもの道。別れて歩み出したときには、もうすでにあれは夢の出来事だったのだと結論づけていた。
 甘くて胸が高鳴る現象を恋というのであれば、あれは確かに恋だった。けれど本当に恋だったのかと問われるとわからなくなる。

 ふと立ち止まって振り返る。彼の背中はまだ見えるところにあった。今から引き返して袖を引っ張ることならできそうだ。けれど今の私は彼を引き止めたいとも触れたいとも思わない。数分前まで確かにあった恋心は、秋の空のように移り変わってしまったのか。

 踵を返して石畳の上を駆ける。
 あのとき感じた甘い感覚は一体なんだったのだろう? その答えを知りたくて、私はもう一度森の奥へと足を運んだ。

 誰もいない花畑。背の高い花を一本手折る。大きく息を吸いこむと、甘ったるい香りが鼻孔をくすぐりむせてしまった。
 咳とともに頭が痺れてくる。香りを意識すればするほど体が疼いて、誰かに触れて欲しくなった。あのときは意識しなかったけど、花の香りは驚くほど正常な思考を蝕んでいく。
 私は咳に疲れてその場に座り込んだ。土の冷たさが火照った体にちょうどいい。
 風が吹くと背の高い花が体をつついてくる。香りはより強くなり、その場から動けないほど囚われる。
 どうやら、私と彼が酔ってしまった原因はこの花にあるようだ。

「これって、まるで――――」



「媚薬のような効果を持つ花だとは思わないか?」
「それを知っていてここに来たのですか?」
「そうだよ」

 少年は花を一本手折り、少女の目の前に差し出した。少女は少し躊躇いつつも、手渡された花を静かに受け取った。花びらのサイズはコスモスやガーベラよりも少し小さく控えめだ。しかし小柄な花びらに秘められた香りは強烈で、少女は思わず咳をこぼした。

「私を籠絡させるために?」
「籠絡って……君は変な言葉を使うのだな。まあ安心しろ。俺は君なんかにこれっぽっちも興味はないさ」

 返ってきた言葉は思いのほか辛辣だった。

「じゃあ、どうして……」
「祖母は言っていたよ。ここはいっときの夢を見せてくれる場所なのだ、と。夢は夢だから現実には何も残らない」

(あの日から、花畑に行けば恋ができるものだとずっと思っていた。そして事実、甘い時間に沈んでいくような感覚のことを恋というのであれば、恋をすることができた。一人でいるときは恋にならないけど、知り合いと一緒に訪れたときは必ず恋になる。「いいサボり場所を知っているの」と誘えば、大抵の人は付いてきてくれた)

 少年は花を取り上げると、湿っぽい瞳で花を眺めた。その姿は酔っているかのように見えるのだが、それにしては言葉がしっかりしている。酔っているのであれば、少年の唇からはとろけるほど甘い言葉が出てくるはずだ。

「いや、残らないどころか害になるのかな」

 しかし、彼の口から溢れるのは甘いどころか苦味の強い言葉ばかり。

「ここで逢瀬をかわせば甘い時を過ごすことができるのだろう。だけどその夢が終わったあとは? 心にもない相手と恋人のまね事をするんだ。君なら想像はつくだろう?」
「想像って……」
「今ここで君に手を出したとしたら、たぶんここを出た瞬間に死にたくなるだろうな、俺は。好きでもない相手に手を出したのだから気まずいことこの上ない。その気まずさが恋かというと、それは違うだろう?」

(気づいた時にはもう、あの花に囚われていたのだ。自分が溺れていることにすら気づいてなかった。――――あの人と出会うまでは)

 少年は花びらを一枚一枚ちぎっては空に向けて投げ捨てていく。

(彼は初めに知り合った青年と同じように、真新しい切り株に座って空を仰いでいた)

 最後の花びらが空に散った。そのタイミングで少年は楽しそうに口を開いた。

「祖母は別の日に、花畑である男と出会ったんだ」

 どうやら昔語りは続くらしい。

「その男は他の人とは違って、花の香りに酔わない人だった」

(甘い予感を期待していた私は迷わず声をかけた。「ここで何をしているのですか」すると切り株に座っていた男は――――)



「一人になりてぇから声かけてくんな」

 厳しい声でそう吐き捨てた。彼は私を見ることなく、ひたすら空を眺めていた。金色に染まる、黄昏の空を。

「……どうして一人になりたいのですか?」
「だから声かけてくんな。うっせーよ」

 花の香りで酔に溺れてしまうのが普通だと思っていたけど、この男は違う。あんまりな態度に私まで頭がすっきり冷めてしまった。

「……なにジロジロ見てんだよ」

 男に指摘されるまで、彼の横顔を見つめていた。綺麗な横顔だった。今まで出会ってきた男の人たちの中で一番言葉が乱雑なくせに、一番繊細な顔立ちをしている。

「知らない人だな、と」

 そこでようやく、無礼な男が顔を動かす。まっすぐに整った黒髪は少し乱れていたけど、灰色の瞳はぶれることなく一直線に私に注がれている。思わず息を呑んでしまうほど端正で貴族のような顔立ちなのに、スーツを着崩しているせいで不良のようにも見える。

「初対面なんだから当たり前だろ」

 男は私を睨みつけると再び顔をそむけてしまった。ただし今度は空ではなく足元の花を眺めている。

「私、ここには結構来るんです。なのに一度も会ったことがありません」
「俺は今日はじめてここに来たばかりだ。つーか、人の話を聞いてないのか?」
「ここはあなただけの場所じゃありません」

 不機嫌なオーラに気圧されながらも、いつものチャイムが聞こえるまではここにいようと決めた。なにせ私の方はいつもより酔っていないとはいえ甘い香りで肺腑を満たしているのだ。すっかり男に惚れていた。

「じゃあ一言もしゃべるな。イライラしてんだよ、俺は」
「どうしてイライラしているんですか?」
「関係ねぇだろ。だからしゃべるなっつってんだ」

 乱暴な言葉で突き放されてしまい、それ以上声をかけることはできなかった。だからせめて行き場のない熱い眼差しを送ってやろうと近くの木陰に腰をおろす。
 切り株に座った男の背中は大人のものだ。何でも背負いこんでしまいそうなほど大きな背中。イライラしているようだけど雰囲気に覇気はなく、思えば私を睨むその目もどこか悲しそうな色をしていた。
 頭は冴えているはずなのに、男が気になって仕方ない。けれど結局声をかけることができないまま、いつものチャイムが鳴ってしまった。

「あの、戻らないんですか?」

 木陰から立ち上がった私はついそんなことを口走っていた。たぶん心のどこかでは期待していたのだと思う。あの寂しそうな人ともう少し言葉を交わしたいと。

「関係ないだろ」

 しかし男は私を見ることなく即答した。会話の余地すらも与えられなかった。

「……暗くなると森は危ないですから、気をつけてくださいね」

 なんだろう、この胸に広がるもやもやは。
 男から返事は返ってこない。私は諦めて踵を返した。

 花畑からの帰り道は暴れくる心臓を落ち着かせるための道だったけど、この日はなぜだか逆だった。花畑から離れれば離れるほど鼓動は強く脈を打った。あの男の横顔を思い出すだけで頬が火照ってしまう。そして同時に苦い思いもこみ上げてくる。悲しそうな横顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 まだ酔がさめていないのかとも思ったけど、今の心地は甘い酒の中に浸っているというよりは、ビターチョコレートを一口舐めて顔をしかめてしまうような苦さがあった。
 この状況に名前をつけるとしたら、たぶん一目惚れだ。もっと知りたいという思いが胸に広がり、また出会えないかという期待が芽生え始めていた。

 思いが実ったのはそれから数日が経ったある日のこと。私は思わぬところで男を見つけた。というのも、夕日が半身を地平線に埋めた頃、ふと二階の窓から裏庭を見下ろすと例の男が目に入ってきたのだ。最初はあのときの男か分からなかった。眉間にシワは寄っていないし、笑っているし。けれどあの繊細で貴族のような顔立ちを忘れるわけがない。

 男を見つけた瞬間、再び会えた喜びとともに黒いモヤのようなものが胸で爆発した。泣きたくなるような、目の前が真っ白になるような、不思議な気分だ。
 ぐちゃぐちゃになった心で感じる。男が今向かい合って話している綺麗な女の人。あの人は特別なのだ、と。

 あの花がなくても、甘い雰囲気が二階にまで漂ってきている。
 私は見ていられなくなって、窓に背を向け床に座り込んだ。
 動悸が激しい。けれどいつものドキドキする感じではない。胸を刺すような痛みが広がり苦しい。
 一度会っただけ、けれど男の悲しそうな背中のわけをもっと知りたかった。まともに話をしてみたいと本気で思っていた。

「……残念、だなぁ」」

 後々情報通な知人から聞いて知った話だけれど、あの新しく赴任してきたばかりの男は付き合っていた彼女と喧嘩をして機嫌が悪かったらしい。たぶん花畑で頭を冷やしていたのだろう。
 二階の窓から見えたあの様子から察するに、問題は解決したみたいだ。

 ああ、これが、恋なんだろうなぁ……。
 初めて知った恋の味は、ちょっぴり苦かった。



「甘いだけが恋じゃない。そんなことくらい君もよく分かっているだろう?」

 春風が頬をなで、花畑を通り過ぎていく。髪が浮き上がり乱れてしまったが、整える余裕はなかった。少女は眉間にシワを刻み、訝しげな顔を向ける。

「先輩は、何が言いたいんですか?」
 少年の顔は笑っていた。けれど瞳は笑っていない。真剣さは嫌というほど伝わってくる。

「媚薬なんてただのまやかしだ。結局は何も残らない。意味のないもの。心を弄んで傷つける、不愉快なものだ」
「そんなことをどうして私に?」
「おや、案外鈍いんだね。そろそろ察してほしいものだけどね」

 少年が花をなくした長い茎で、ある場所を示す。それは少女が目をそらし続けていた花畑の一角。

「園芸委員長である俺が気づいていないとでも思ったのかい?」

 元気な花に埋もれるようにして、花がごっそりなくなっている箇所がある。白い星空にぽっかりとダークホールが開いてしまったかのような、あまりにも不自然な箇所だ。
 実はこの他にも、穴がぽっかりと開いてしまっている箇所はいくつかある。一目見ただけでは花に隠されていて分からないのだが、切り株の上に立って全体を見渡すとよく分かる。
 小さな穴だが、確かに花を喪失している奇妙な箇所。

「君は確かアロマテラピーを研究する部だったかな? それとも香水だったか……俺はそういうのに疎いからよく分からないけど、可愛い後輩が言っていたよ。これくらい香りの強い花なら、エッセンシャルオイルをつくることができるんじゃないかって」

 切り株の上に立った少年は一通り花畑を見渡すと、トンと地面に飛び降りた。そして座ったまま顔をあげようともしない少女の前に立つ。

「ただそのエッセンシャルオイルを作るのに、ずいぶん花が必要みたいだね。君は景観を損ねないようにするためか色々な箇所から花を刈り取ったみたいだけど、ここは花で埋め尽くされている場所なんだ。数本取っただけで目立つ穴はできてしまう」
「……別に、取ってはいけない花ではありませんよね?」
「使用方法にもよるのだよ。君はこの花を、何に使おうとしたんだい? これでアロマオイルや香水を作ったら、さぞかし効果のある媚薬になるだろうね」
「別に媚薬をつくるわけじゃ……」
「媚薬だよ。君が作ろうとしているものは」

 少女が険しい顔を上に向ける。黄昏の光を背景に、少年が有無を言わせず言葉を続ける。

「俺は園芸委員長だ。花が原因で学内の風紀が乱れてしまいそうな行いを、逃してしまうわけにはいかないだろう」
 もしも香りが校内に広がってしまったら、酔ってしまった生徒が何らかの問題を起こすかもしれない。媚薬の香りは生徒を酩酊させるのだ。風紀の乱れに繋がってしまう可能性は十分に考えられる。
 返す言葉もないくらい正当な取り締まりの理由に、少女は唇を噛み締める。自然と体は震えてきて、目尻がどんどん下がっていく。

「先輩には、分からない……」
「答えに窮した時の常套句だね」

 優しい顔をして容赦無い少年の言葉に、とうとう少女は折れてしまった。もともと罪悪感があったのか、足掻くことはなかった。

(恋だとわかった瞬間さらに苦しくなった。絶対に振り向いてもらえるわけがない現実に少しだけ心が痛んだ。もうあの男――先生を直視することができなかった)

「……私、ダメなんですよ。誰かと付き合っても、半年ももたず飽きられてしまって……容姿も中身も平凡な私は、特別な何かを使わないと恋することすらできないんです……」
「花を使えば恋ができる、なんていうのはさっきも話したけど嘘だよ」

(体中から力が抜けて、教室で一人うずくまっていた。……そんな私を、彼は目ざとく見つけてくれた)

 さらに言葉を続けようとした少年は、急に顔をそむけてくしゃみをし始めた。立て続けに何度か咳をする。あまりに苦しげな咳に、少女は驚いて顔を上げた。

「だ、大丈夫ですか?」
「ああ、すまないね。……花粉症なんだ」
「花粉症……」
「ここはどうにも体に悪い。いや、ここだけじゃないのだけど」
「体に悪いのであれば、わざわざこんなところまで連れて来なくても……」
「君が本当にこの花のことを知っているという確証はなかったからね。逃げ道のない証拠がほしかっ――くしゅっ」

 一度咳にはまってしまうとなかなかやまないようで、少年は苦しげに唸る。

「でしたら他の委員の人でもいいのでは? さっき後輩に香りのことを聞いたって言っていたじゃないですか。先輩の後輩も花のことは知っているんですよね?」
「ふむ、鋭いな、君。しかし後輩は場所まで知らないよ。……それに、この香りに慣れている君は別として、俺のような香りに慣れていない人間は今の時期にしか来ることはできない」
「どうしてです?」
「鼻が詰まっているんだ。匂いなんて、ちっとも感じないくらいにさ」

 全然ロマンチックではない理由を聞いた少女は「そういうことか」と弱々しく笑った。

(「葉月さん、どうしたの? そんなところに座り込んで」顔をあげるとクラスメイトの少年がいた。社交的で情報通な委員長だ)

「どうして酔わないのだろうとずっと思っていましたが……そんな理由でしたか」
「君、そんなって言うけどね、結構きついんだよ」

 情けなく鼻をすする少年と、脱力する少女を花が穏やかに包み込む。甘い香りはもう感じない。

「――まあ、それはさておき、君が所持しているだろうオイルと花を回収し、処分しようと思うのだが、構わないだろうか」
「…………鼻が詰まっているうちに来てください、若林先輩」

(でも今はその優しさがどうにも鬱陶しかった。「……放っといてよ、若林くん」すると彼は私を見下ろしたまま、にやにやとし始めた。嫌な予感がした。「なるほど、新しくやって来た先生に失恋でもしたのかい?」その言い方がなんだか気恥ずかしくて、誰もいない教室、夕日に温められた手を伸ばして、私は若林くんの手の甲を思いっきりつねってやった)

「そうさせてもらうよ」

(「何をするんだ、いきなり!」若林くんは涙目になりながら、それでも元気のない私を見て哀れに思ったのか、頭をくしゃくしゃと撫でて励ましてくれた)

 突然髪をぐしゃぐしゃにかき回された少女は驚いて目を見開く。

(彼は柔らかい笑みを浮かべながらこういった。「先生のことは気にするなって」)

「花のことはもう忘れるんだ」

(「お前なら絶対にいい恋ができるさ」)

「君ならきっと、いい恋ができるよ」

 二人の少年の笑顔が重なる。
 その瞬間、むせ返るような甘い香りが胸を満たし、何もかもが真っ白になっていった。

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