【プロローグ scene0-5a(歩ルート)】

危 険 地 帯



(歩を探してみよう)

 自分から探すのは癪だが、一人になるよりはマシだ。

(歩なら拒まれることはないと思うんだけど……どこにいるのやら)

 彼は様々な場所に現れるので、「ここだ」という定位置がない。
 探そうと思っても、運がよくなければ出会うことのできない相手だ。

(……いや、待って)

 そう、歩は様々な場所に現れる。
 なぜそれを私が知っているかというと、実際に目撃しているからだ。
 あるときは屋上で、あるときは空き教室で、あるときは中庭で、またあるときは図書室で。思い返せば、行く先々で歩を見かけているような気がする。

(今さらだけど、考えてみればおかしな話よね)

 そんな偶然があるものだろうか。
 今まで深く考えたことがなかったから、違和感を感じることはなかったが。

(まさかとは思うんだけど……)

「……歩? もしかして、いる?」
「んー、呼んだか、香世!」

(嘘っ!)

 冗談のつもりだったのだが、本当に歩の声が返ってきた。
 どこからかというと、真横にあった教室からだ。空き教室だと思っていた窓が突然開いて、歩が出てきた。

「……なんで、そんなところに……」
「え? なんでって、香世が呼んだからじゃないか」
「呼んだけど、なんでそこに?」
「そりゃあ、代表者会議でなにかあったらいけないから、すぐに助けてあげられるよう待機していたんだ」

(まるでストーカーじゃない)

 まるで、ではない。ストーカーそのものだ。
 もしかしたら今までも、あれやこれやと理由をこじつけて、追いかけられていたのかもしれない。

「私、そんなこと頼んでないんだけど」
「ああ、頼まれてないぜ。俺が勝手にしていることだ」
「……鬼灯より、色々な意味で怖いんだけど」
「えー、そんなことないだろ」

 本人に自覚がないのだから、なおのことたちが悪い。

「それより香世、会議は終わったんだよな?」
「……まあ、終わったけど」
「じゃあ俺に付き合ってくれよ」

 よいしょと言いながら、歩が窓を軽々と飛び越え、私の前に立ちふさがる。よほどの非常事態でも発生しない限り、歩が諦めることはないだろう。

(何をさせられるのか分からないから、ちょっと怖いな)

「どこに行くの?」
「そんなに警戒しなくても大丈夫だぜ」
「あんたがまともな常識人ならね」

 まともでもなければ常識人でもない。それが歩だ。

「じゃあやっぱり大丈夫だ。俺は常識人だろ。いいから、ついてきてくれよ」
「わっ、ちょっ……痛い!」

 歩に強く手首を捕まれ、引きずられるがままに廊下を進む。

「香世はきっと喜んでくれると思うんだ」

 その自信はどこから来るのやら。歩に強制連行されていいことがあるものか。しかし今日は本気で抵抗する気にもなれなかった。

(一人に、なりたくない……)

 どんな非常事態が待ち構えていようと、死ぬことはないはずだ。
 意を決して歩についていくと、家庭科室の中に連れ込まれた。これは――想定外だ。

(家庭科室っていうことは……)

「久しぶりにワッフルを作ってみたくなったんだ」

(やっぱり、お菓子を作る気だ)

 歩が家庭科室にある棚の引き出しから、紺色のエプロンを引っ張りだす。学校の備品ではなく、歩が自分用にと勝手に置いているエプロンだ。……そう、歩は家庭科室に自分のエプロンを置いてしまうほど家庭科室をよく使う。
 意外なことに、歩はお菓子作りが上手い。この分野に関してだけはまともなのだ。日頃の狂いようからは想像もつかないほど美味しいお菓子を作る。

「香世も食べるだろ?生地を発酵させないで作るから、すぐにできるぜ」
「食べる。食べるけど、もう夕食なんじゃ……」
「疲れたときには甘いものがいいんだぜ。それに、まだ寮には帰らないだろ?」

 私が腕に抱えていた資料一式を指さしながら歩が言う。
 確かにその通りだ。委員会内で配布する報告書を書き終えるまで、帰るつもりはない。

「美味しいやつ、すぐに作ってやるからな!」

 エプロンをつけた歩が爽やかに笑う。

(やばい、エプロン姿の歩って、別人みたいでかっこいいのよね)

 不覚にも、一瞬ドキっとしてしまった。
 歩はもともと、中身はあれだが外面だけは整っている。黙ってさえいればかっこいい類の青年だ。

(中身を知っているから、残念に見えるけど)

 歩が家庭科室の棚から道具と材料を手際よくだしていく。
 ちなみに、家庭科室は自由に使っていいことになっている。置いてある食材と道具も学校側が定期的に調達するので、用意する必要がない。自炊を好む生徒への配慮だ。

(自炊好きな生徒って、あまり見ないけど)

 出会って間もないころ、初めて家庭科室に連れ込まれたときは「爆弾でも作る気なの?」と本気で疑った記憶がある。それくらい、歩と料理はイメージ的に結びつかなかった。
 もちろん今では、袖をまくってやる気を出した歩が本当にお菓子を作ってしまうことを知っている。最初の頃に感じた意外性は、まだ胸の奥でくすぶっているが……。
 いつもヘラヘラ笑っている歩は、何かに集中し始めると顔が真剣になる。お菓子作りでは特にそれが発揮される。調理台と向き合う歩は表情が引き締まっていて、歳相応の真面目な青年に見える。

(本当に、別人みたい……)

 今の歩は、外面だけで言うと破天荒な問題児とは思えない。
 少し離れた場所でお菓子を作る歩を盗み見しつつ、報告書にペンを走らせる。
 歩といるとは思えないほど、平和な時間だ。平和すぎて、私と今一緒にいるのは本当に歩なのかと不安になる。

(ま、平和なのはいいことか……)

 緊張でこわばっていた体はすっかりほぐれている。
 歩といると危ない目に遭うかと思っていたが、今日に限ってはその心配はないようだ。
 安心すると、今度は段々眠たくなってきた。

(そういえば、昨日はあまりよく眠れなかったし……)

 次第に文字が霞んで見えてきて――意識を手放したところまでは覚えている。

◆ ◆ ◆

 甘くて香ばしい香りが漂ってきた。

(そういえば、私……家庭科室にいるんだっけ)

 頭が重く、油断すれば意識が沈んでいきそうだ。

(あー……なんで家庭科室にいるんだっけ?)

 考えれば考えるほど、体がまどろみの中に逃げこもうとする。
 なかなか覚醒しない私を現実に戻してくれたのは、一杯のレモン水だった。

「……ありがとう」

 目の前に置かれたグラスを手に取り、喉を潤す。
 柑橘系の爽やかな風味が口内に広がり、次第に意識がハッキリとしてくる。

(そっか。私、歩に連れて来られて……)

「香世が寝ているところ、久しぶりに見たぜ」

 ふと顔を上げると、目の前に歩の顔があった。
 台の上に身を乗り出し、私の顔を覗きこんでいる。少し頭を傾けるだけで、額がくっついてしまいそうだ。

(――いやいやっ、近い!)

 慌てて体を離す。

「あっはは、そうそう。油断してないで、ちゃんと警戒しないとダメだぜ?」

 見ているだけなら害のない笑顔を浮かべながら、歩がフォークに突き刺したワッフルを差し出してきた。
 いつの間にか、完成していたらしい。
 台の上には、白い皿にこんもりと盛られたきつね色のワッフルが甘い匂いを漂わせている。

「……私、結構寝てた?」
「いいや、ちょうど出来上がったタイミングで起きたぜ」

 気づいてよかったと胸を撫で下ろす。
 なかなか起きないようだったら、歩のことだ。きっとろくでもない方法で私を起こしていたに違いない。

(疲れていたとはいえ、なんて迂闊な……)

「ほら、食べないのか?」
「……え?」
「ワッフル。ココアパウダーを混ぜてみたんだ。香世、チョコ好きだろ? 絶対おいしいぜ!」

 ほら、とフォークに突き刺さったワッフルで促される。

「食べたいんだけど……」
「だから、食べろよ」
「普通にフォーク、渡してもらえない?」
「渡しているだろ?」

 歩の渡し方だと、口で食べるしかない。

「ほら、早く」

 歩の赤い目が、ほんの一瞬波のように揺らいだ。
 これは、何を言っても無駄だろう。
 早く早くと促す歩に根負けし、渋々フォークに突き刺さったワッフルを口に含む。

「――あっ、美味しい!」
「だろう!」

 香ばしい香りの中にココアのほんのりとした甘さが混じって、食べた瞬間に頬が緩んだ。

「まだたくさんあるぜ!」
「……でも、もう夕食が近いんじゃ」

 ふと気づく。
 眠っている間に、夜が訪れていたようだ。外は真っ暗で、夕食の時間も近い。
 体を捻らせ、窓に目を向ける。
 窓の向こう側。今日の空にも赤い月が浮かんでいた。昨日と同じ、不気味な月だ。
 その月が見える窓に、歩の姿も映っている。赤い目で、じーっと私を見つめる歩の姿が。

「俺と二人きりなのに、ずいぶん油断してるんだな」

 窓に映った歩と目が合った。
 背筋がぞくっとするくらい、赤い月がまだマシに見えるほど、不気味な赤い瞳。
 歩の動く気配がし、私は咄嗟に腕のホルダーから懐中電灯を抜き出した。
 体を近づけてきた歩の喉仏に、懐中電灯をぐいっと押し付ける。

「そうそう、そうやって、俺といるときは常に警戒してくれないと」
「……そうね。鬼灯のことがあったから、少し油断していたみたい」

 熱のこもった赤い瞳に見下され、手が震えそうになる。
 鬼灯の目は何の感情もこもっていない無機質な目だが、歩は逆に色々な感情が渦巻いているかのように揺らいでいる。

「鬼灯さんだけじゃなくて、俺のこともしっかり見てくれよ。じゃないと――」

 懐中電灯を握っていた手を捕まれ、ぐいっと上に持ち上げられる。そして抵抗する間さえ与えられず、腰に手が回された。歩の顔が首に近づき、マズイと思った瞬間、ざらりとした感触が体を揺らした。

(――っ怖い)

「俺、香世を食べちゃうかもしれないからさ」

 物騒なことを言いつつも、本気ではなかったようだ。
 あっさりと歩の体が離れていく。そのことに、肩の力が抜けるほど安堵した。

「ワッフル、持って帰るだろ? ラップに包むから、ちょっと待ってろよ」

 咄嗟には声が出てこない。

(歩は、たぶん私を守ってくれる。でもそれは、私のためなんかじゃない)

 歩の隣は危険地帯だと、何度も何度も経験したことがあるのだが――いつも騙されてしまう。表面上は優しくしてくれる歩に、たぶん、私自身がどこか甘えている部分もあるのだろう。

(……しっかりしないと)

 懐中電灯をホルダーに戻しながら、バクバク音を鳴らす心臓を落ち着けるために深く息を吸う。
 それでもしばらくは歩になめられた部分が熱をもち、鼓動が落ち着くことはなかった。