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水も滴るいい男、にいいやつはいない



 ようやく終わった――病み上がりの人間に一週間分の補習と小テストを投下してきた鬼畜の顔はもうしばらく見たくない。
 社会科準備室に振り返り、トビラを蹴ってから去ってやろうかと思ったけど、さすがにそれははしたないし、鬼畜教師に何を言われるか分かったもんじゃないから自重した。
 廊下の窓から外が見える。まだ明るい時間のはずなのに、いつもより薄暗いく感じるのは、空が灰色の雲に覆われているからだ。土砂降りというほどではないけど、雨が降っている。

(傘がないと、濡れそう)

 幸いなことに傘はある。ただし、昇降口から少し離れた教室に。
 疲れきった体で教室に戻るのは辛いが、疲労困憊気味、そして病み上がりの体で雨に打たれたくはないので、しぶしぶ引き返すことにした。

 曇天のせいで教室の中は暗い。面倒だから明かりはつけないけど、目が慣れるのに少し時間がかかった。
 教室に入り、自分の席を目指す。
 膝を曲げ、机の引き出しから折り畳み傘を抜き出して――そのときだった。急に背中に何かがぶつかって、変な悲鳴をあげてしまった。腰の辺りに温かいものが巻き付いてきて、また声を上げそうになったけど、口を塞がれて音にはならなかった。

(なっ……なに!)

 唐突すぎて半パニック状態。

「ずいぶん遅かったじゃないか、香世」

 しかし、声が分かれば騒ぐ必要もなかった。

「たしか、奏先生に連れて行かれたんだよな。小テストだけでなく補習までやられたのか? ついてないな」

 耳に息を吹きかけられるように囁かれ、その気持ち悪さに身をよじらせるが全然離してくれない。いっそのこと口を大きく開けて手を噛んでやろうか。

「おかげで俺は待ちくたびれたぜ」

 そんな思惑が伝わったのか、セクハラ男の手が離れていった。ただし、腰に腕は回されたままだ。逃がすつもりはないらしい。

「待ちくたびれたってなに? 待ってなんて頼んだ覚えはないんだけど!」
「香世だけが頼りなんだ」
「何のこと? つーか、離してセクハラ男!」
「セクハラって酷いなぁ。離したら途端に逃げるだろ?」
「逃げたくもなるわ!」
「取って食うわけじゃないのにな」

 セクハラ男――歩が傘に手を伸ばしてきたので、慌てて胸に抱え込んだ。なるほど、歩の狙いは傘らしい。

「貸さないから」
「貸してくれとは言ってないだろ」
「あと、入れないから」
「照れるなよ。俺が風邪をひいてもいいって言うのか?」

 いいに決まっている。

「風邪をひくほどあんたって頭良かった?」
「少なくとも香世を待ち伏せして、捕まえることができるほどの知恵はあるぜ」
「置き傘を探すまでは知恵が回らなかった?」
「俺は優しいからな。他の生徒に譲ったんだ」

 どの口が優しいとほざくのか。私の傘を狙ってくるあたり、全然優しくない。ただ、責めるつもりもない。私だって優しくない人間だ。傘を貸すつもりも、傘の中に入れるつもりもないので、歩の足を思いっきり踏みつけた。

「――っ」

 歩が声にならない悲鳴をあげて腕を緩める。その好機を逃すわけがなく、魔の手から素早く身を離した。そのまま教室を飛び出そうとしたけど、少しだけ振り返った。

「あんたは雨に濡れても風邪ひかないから大丈夫よ。じゃあね」

 捨て台詞を残すために。
 しばらく廊下を走ったが、歩が追いかけてくる気配はない。すんなり諦めるとは思わなかった。

(いや、追いかけてきてほしいわけじゃないんだけど)

 追いかけられなくなるほど痛かったのだろうか。確かに手加減なしで踏みつけたが、なにも素足をピンヒールで踏みつけたわけじゃない。かといってスニーカーではなく革靴なので、それなりのダメージはあるはずだが。

(……あいつが、これで諦めるはずがない)

 そして案の定、あたってほしくない予感は的中する。
 昇降口にたどり着き、それに気づいた途端、頬が引きつった。

「――あんた、バカでしょ」

 先回りしたらしい歩が、昇降口にいたのだ。
 どうやって先回りしたのかは、濡れている姿を見れば一目瞭然。二階の窓から飛び降りて、一階の昇降口へそのまま入ってきたらしい。

「だって俺、風邪ひかないんだろ?」

 濡れてしまっては私を追いかけてくる意味もないと思う。
 呆然として気を抜いてしまったその隙に、歩が手を掴んできた。振りほどかれないようにするためなのか、結構痛い。

「はっ、離して!」
「俺、濡れたし、いっそのこと香世も濡れようぜ!」
「は!? ふざけないで!」
「ふざけてないぜ。俺は真面目だ」

 あろうことか歩は、私の手を掴んだまま強引に走りだしてしまった。
 女の力で二階から飛び降りても平気な野生児の手を振りほどけるわけがなく、あっという間に雨の中へ。傘をさす間も与えられず、体がどんどん冷たくなっていく。

「あっはは、早くしないともっと濡れるぜ!」

 歩に引きずられるがまま、寮を目指して雨の中を駆け抜ける。

「……いつか後ろから刺されてしまえばいいのに」

 かなり本気で、そんなことを思った。