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子 犬 騒 動



 冷たい麦茶を一気に喉に流し込む。それだけで、疲れた体が癒されたような気がした。
 体が異常に水分を求めていたのは、世界が灼熱地獄に落ちたかのような真夏の暑さが原因だ。
 いつも学校に水筒を持っていくのだが、半日もしないうちに中身はなくなった。自動販売機で冷たい飲み物を買ってもよかったのだが、せっかく水筒を持ってきたのに飲み物を買うというのは勿体ない気がしたので、家に着くまでずっと我慢していたのだ。

 今日は胃を痛めるような出来事、というか事件が悪夢のように降りかかってきたので精神的に疲れている。こういう日は、早く汗まみれの制服を着替えて寝るに限る。

 拓夢の部屋は、とある住宅街の片隅に潜む一軒家の二階にあった。重い足をあげて階段をあがり、無心に部屋を目指す。
 すでに気分は休息モード。ようやく寝られると浮ついた気分で部屋のドアを開けた拓夢は、一瞬、目を疑った。
 一度ドアを閉めてもう一度開けてみるが、ベッドの上にいる「それ」は幻でも夢でも悪夢でもなく、現実だった。「それ」はベッドに顔を沈めているため表情をうかがうことはできないが、小柄な少女といえば、思い当たる人物は一人しかいない。
 少女は魘されながらベッドの上をころころと転がり、ドンと床に落下した。拓夢がドアを開けたちょうどそのときに起こったことだったので、タイミングとしては非常によかった。

「んー」

 落ちた衝撃で少女は起きたらしい。半開きの目で辺りを見回し、床にぺたりと座りこんで首を傾げ、最後にドアを後ろ手で閉めながら部屋に入ってきた拓夢に一言。

「……ここはどこ!」
「貴様人の部屋に勝手に侵入して何寝ぼけてる」

 予想通り、不法侵入者の正体は向かいのアパートに住んでいる同級生、彩葉だった。

「……彩葉に用事?」
「そうか、記憶が吹き飛んだか。じゃあさっさと帰ってくれ」
「用事ないの?」
「ない」
「彩葉はあるよ」
「わざとか、貴様」

 もはや悪意しか感じない。
 彩葉が立ち上がり、ベッドの縁に腰を下ろす。拓夢は今すぐにでも彩葉を追い出してびしょびしょに濡れた制服を着替え眠りにつきたい気持ちを全て胸の内にしまいこんで、椅子に座った。
 彩葉は制服から私服に着替えており、見ているだけで涼しくなるような格好をしていた。上はキャミソールを着ているだけなので華奢な肩が露わになっている。ああいうのを見ると、自然と上着をかけたくなってしまうのは幼いころの教育の賜物か。いや、そんなことはどうでもいい。

「さっき子犬拾ったんだよ」
「よかったな」

 どうやら今日に限って厄介事を持って来たらしい。即座に追い返さなかったことを後悔するが、もう遅い。

「どうしよう?」
「俺は知らない」

 飼うなり飼い主を探すなり野放しにするなり、好きにすればいいだろ。面倒なことに巻き込むな、そう吐き捨てようとしたのだが……。彩葉のすがりつくような目が良心をえぐる。

「……そもそも、お前、犬はアレルギーが出るんじゃなかったか?」
「目の前で寂しそうにしていたから、つい拾っちゃったんだ。一緒に飼い主探してよ」

 ひぐらしの鳴き声が沈黙をあおった。夕焼けの中をカラスが横切っている。窓の外には飛行機雲の軌跡があった。今日は入道雲が見つからない。雨の心配はないようだ。
 そうやって別のものに意識を逸らしてから再び彩葉の様子をうかがうと、また心が痛んだ。

「…………分かった、今回だけな」

 こうやっていつも折れるのは拓夢の方だ。相手によっては一蹴することもできるのだが、彩葉の場合は諦めが悪い。無駄な体力を消費するくらいなら、短い間でもでも付き合ってやるほうが有意義な時間を過ごせるはずだ。
 彩葉の表情が華やぎ、拓夢も「まあ飼い主を探すくらいならいいか」と思い始めていた、その矢先。

「正確には落とし主?」

 彩葉がスカートのポケットから引っ張り出したのは、子犬のキーホルダー。

「帰れ」

 拓夢が即答したのは言うまでもない。